韮崎の津渡
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
たびたび訪ねていると、ある時には、山県神社の神主さまが、韮崎まで車で運んでくれたりした。下今井などの旧街道を通らず、国道二十号線を突っ走ったのは遺憾であったが、そう勝手なことはいえない。
川舟、「下げ米、上げ塩」
韮崎は塩川が釜無川に交会する三角地点の北にある古い町で、甲斐西北部での枢要な都市だった。塩や雑貨を積んだ曳き舟は、富士川を溯って鰍沢を通り、はるばるここまで漕ぎ上って来た。
積み出すものは主に米穀で、武川筋から遠く南信一帯の御城米までが馬の背によってここに集中してきた。いわゆる「下げ米、上げ塩」である。この積み下ろし場の船山橋あたりは、これらの伝馬・中馬や旅人たちで大雑踏をきわめ、近所の人々は馬の腹の下をくぐって向う側と往き来したという話もある。
この韮崎というは、甲州街道が設定されてからの宿場名で、その前は河原部といったそうだ。
文字通り釜無川の河原に過ぎぬI寒村だったであろう。それが宿場となると急速に発展したわけで。今でも地下三、四尺掘ると、その下は河原砂ばかりだという。
山梨日日新聞社の「甲州街道」によると、小林観寿郎という表札のある旅寵の清水屋、小林一三の生家布屋など古い豪壮な建物があるということで、楽しみにして通ってみたか、今はない。
前者は取払って洋式建物を建造中、後者は移転して今は空地となっている。小林家の入口に「馬繋ぎ石」があると同書は珍らしい図板をのせているが、これもついでに移転したものとみえてお目にかかれなかった。この珍石は是非一見したいものだが、残念である。
陽かげの観世音
延々と続いた七里岩も、韮崎にきてようやく姿を消す。その最後の断崖の中腹をくって大士洞という。洞中に龕(ずし)を築いて観世音を安置している。雲岸寺の境内であるが、今はこの窟観音だけが名高い。
洞下の広場は子供の遊び場となっていて、やたらに乱雑をきわめている。左の方の石段をのぼって寵中に入ろうとすると、有刺鉄線がさえぎっている。子供が悪さをするので、塞いであるという。この辺の子供は、甲州人らしく勇猛であるらしい。こう隔離されてしまって、気の毒なのは観音様であるが、そこは仏様だけあって、みごとに悟りきって平気で孤寂に堪えている。
甲府に招かれていい気持になり、四方を遊び廻った物但抹は、ここにもやって来て次の詩を残
している。
韮崎大士洞
伝言千年寺 香火大悲尊 石壁鬼神劈 苔庭日月昏
巌懸迷有路 洞曲訝無門 忽得豁然出 方知近尚邨
別に変哲もない詩であるが、この寺の状景が一応は描かれている。特に洞門に重点を置いているのは同感である。すなわち右下に墜道があって東側へ出られるのだ。
東側へ出て、七里岩が終焉を告げるあたりから背に登ってみると、一段と小高いところにでっかい観音様が聳えておわす。その下に市役所など公共建築物が建ち、その中に教育委員会もある。入って行くと誰もいない。何やらかにやらいそがしくって、みんな出払っているという。何かそんなに忙しいかと聞くと、それはわからんという。結局、要領を得なかったが、どうもこういう訪問者は相手にするなという憲法のあることだけは事実らしい。
ここの韮崎駅は、迷路の奥みたいなところにあるが、何度も通っているうちに、スイッチバックもなくなって、便利がよくなり、急行も時には停車するようになった。将来の発展が期待される。観音様も冥加をたれたもうように……。