〇 柳澤保明(吉保)立身の事
公(綱吉)上野御遊覧の後、指して被仰せ出る旨もなし、やゝ三十日ばかりも過ぎて、御近臣に仰せけるは、上野道筋にて還御の折柄、御茶召しあがっていたところ、前の家に居たる者は、どの様な者かとお尋ねになられた。而而の者と申し上げるところに、すなわち老臣を召して、小役人柳澤彌太郎の事、思召す旨あれば、御城内にて召し取り立てる様にとの上意なり、これにより老中評議ありて、小身の外様の者、故も無きに直ちに眤近(じっきん 召し取り立てる)の旧例なしとて、弥太郎に由緒を尋ねるに、甲斐源氏の庶流青木靱負(ユキエ)御旗本の士、秩(チツ 俸給)三千石頂戴罷り在り候、元はこの家より分かれ出たりと申し上げるにより、則靱負弟分にて御取り立て然るべきとて、その趣言上に被及ぶところ、その通りに取り払うべき旨仰せ出だされ、柳澤彌太郎禄三千石を賜い、御城内へ昵近する。
私(著者)曰く最初に三千石賜るという事は在り得ないこと。疑えば三百俵の書き違いか、但し常憲院殿の御代には、新治並びに御加増の過分なること、本庄因幡守、牧野備後守、松平右京亮(後右京大夫)を始め、その余勝て計うべからず、前後の御代には稀なる事なり。之をもって見れば始めより三千石賜わったのかも知れない。猶可追考。
彌太郎恰も材衆に超え、その上さしもに家を興す程の開運の人なれば、為す程の悉く臺意に協なわれ、さながら御手を
揺らし給うに等しい。故に他の近臣は居ても居ないがごときで、御行往坐臥には、ただ彌太郎、彌太郎とのみぞ召されける。このようなことは古今例の無いことで、至りての出頭は、君の意を計り伺うにも及ばず、自ずから心に応ずるものなり。左様の臣はよろず君に対して遠慮をしないと、諫めを奉ることも容易なり。本田佐渡守などの神君へ仕えたるが如し。是才智器量ばかりに非ず。君臣自然の宿因とも謂うべし。彌太郎もしばらく昵近の以後は、稲荷参詣も叶い難く、屋敷の内に小社を勧請して、猶々立身を祈り、且つ卜者雲洞を賞してこれを師と頼み、日夜寝食をわすれて、勤仕するほどに、三ヶ月を不経して二千石を賜り、まもなく戸田川の御鷹野先にて働きがあるによって、五千石の御加恩あり、都合一万石になって、従五位下出羽守に叙任せらる。