〇 上野御成催沙汰
綱吉公の御臺所は、鷹司房輔公の姫君にて、館林御在城の砌、御入輿あり、この御腹に徳松君姫君御一方御出生有り、徳松君は早世し給い、姫君は鶴姫と奉号、紀伊中納言綱教卿の御簾中と成らせ給う。
綱吉公館林に御座の時より御憤深く、御臺所の外は、御側へ女中を禁じ給ひ、御手廻は唯児童計を召仕しが、御本丸へ被為入て後も、其の通りなれば斯ては御世嗣御誕生も無覚束と、執役井伊直輿を始め、老臣の面々取々許して、所詮御近臣の面々より勧め奉り、御意に叶ふ女を召し拘られんより外無しと、御出頭の八木主税之介杯(など)へ申含られける故、彼輩色々勧め参らせ、時しも春和整い高樹佩(はい)華の折柄なれば、上野御遊覧を催し、御成の御道筋、広小路辺に御成り拝見と称して、艶質の女を数を盡して粧わせ並べ置くならば、如何に愼独の君なり共、など御心の動かでや有べきと様々巧言して勧め奉り、公稍(ようや)くに點頭ましませば、去らばとて、婦人御成拝見の事を江戸府中へふれ流し、侍凡下を不云、未嫁婌女(淑女)を粧を餝(かざ)り、御成筋へ可差出との事なれば諸人是を聞伝て、實や當公方の御母堂桂昌院殿は、元京都西陣織屋の娘なるが、末の嬬と成て御城へ上らせ図らずも御先代の御意に御叶有て、綱吉公御誕生、今一位様奉称し、国母に等しき御崇敬、又御取親北小路宮内少輔は、禁裏地下役人にて、其の身上の人成を、英子を被召し出し、本庄宮内少輔道芳とて、一萬石を賜う、且つ御母堂の御實弟は、山城西岡に幽か成り暮しにて被居しを、御取立て有て、本庄因幡守宗資とて釆邑七萬石を賜う。斯くる【このような】例しもまのあたりなれば、如何なる果報賢じき者や、御撰に逢いて、頓で公達を産奉り、親族迄も御取り立てに預らんと、皆々励み競ひて、我も我もと其の用意を
ぞしたりける。