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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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○  石清水霊告 徳川綱吉 翁草

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  •  石清水霊告
太閤秀吉公在世の砌、神祖浪華より伏見城へ帰らせ給ふ折柄、御氏神男山八幡宮へ御参詣、御所願の事有て、神殿に通夜し給ふ処に、其の夜霊告げあり、是と云ふ字を掌内に獲給うに、握るに吉、開くに大事との御告げ也、御帰城の後、南光坊僧正へ此事を御尋ありしに、僧正即判じて申さく、是と云ふ画を分るときは日下人也、夫を振らせ給うは、まさに天下掌握の吉瑞也、但握るに吉とは、公より五代は天下安全なるべし、開るに大事とは、六代目へ移らせ給う時、容易なるまじくと判ず、果たして綱吉公御治世の末に至て、天下不穏に及んと欲る処に、御臺所浄光院殿の節義危急を避る大度(おおごと)と成て、永く泰平の御代に復しけるこそ賢じけれ、偖亦(さてまた)四代の君御誕生年の十二支自然と連綿するも不思議なり、家康公は天文十一壬寅十二月二十六日、秀忠公は天文七乙卯年四月七日、家光公は慶長九甲辰年七月十七日、家綱公は寛永十八辛い年八月三日御誕生、斯く寅卯辰己と御四代連綿する処に、綱吉公は正保三内戌年正月八日御誕生なれば、干支の違いは有と雖も、有馬頭にて渡らせ給へば、其の縁無に非ずとて、御養君に備らせ給う。
 私日是頗る陋説(ろうせつ)なるべし、歴主の御吉例は徳なり、茲ぞ干支の例に拘らんや、岩し是を立んとせば、
 干支不巡の君は悉く廃せんや、可笑の甚なり。【陋説 狭い意見】

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