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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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○ 家綱公薨御 綱吉公立将軍并堀田正俊横死 『翁草』

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○ 家綱公薨御 綱吉公立将軍并堀田正俊横死
常憲院殿綱吉公は、真さに紳祀の御曾孫、厳有院殿家綱公御連枝也、御兄参議左馬頭網重卿は、甲府城御拝領(御家領二十五万石)綱吉公(参議右馬頭)は上州館林(御家領二十万石、異説二十四万石)御拝領あり。
世に甲府・館林の御両伝と称し奉る、而るに大樹家綱公未公嗣ましまさず、よって甲府相公を御着君の御沙汰も有しか共、相公御病身故に固辞し給ひ、未御世嗣定らせ不給處に、大樹公御違例唯ならず、国茲延宝八年五月九日夜俄に館林相公を被召、御養君の御披露あり、其の夜は先神田御殿へ帰らせ給ひ、翌六日御成の御格にて、御登城二の丸へ入せられ、中納言を不経して大納言に任じ給ふ、同八日大樹家綱薨御の御披露あり(御治世三十年御齢手年四十歳)御意旨により、尊骸は上野へ被為入、厳有院殿と奉称、綱吉公五代将軍に立せ給ふ、此君始は文武の矩正く、さしも艮君の聞え普ねかりしが、惜しい哉、其の矩中道に廃れて、好臣の馬に蕩かされ給ふ風情、唐の玄宗、且は相模入道宗鑑に彷彿たりと、萬世に異説遣されけるこそうたてけれ、然のみならす公威四海を掩(おおふ)ふに至らざるにや、臣下に威権を奪われ給ふせ事一度ならず、始に堀田正俊あり、終に松平吉保あり、是公の不徳とや云べき、御先代より、大老酒井雅楽頭忠清は延賓九年に役儀御免、其の次の大老職は富御代に段々登用せられし、羽林次将兼筑前守堀田政俊也、而(しこう)して正俊の威権古今未曾有にして、宛も公権を壓(あっする)が如し、老臣すら事を伺ふに時宜を計る程なれば、況や其他に於いてをや、更に公方を拜輯するに異ならず、政俊奢侈の余にや、公儀安宅丸の御船を破却し、色々の悪説、日々に喧(やかまし)く、士民安き心無りしが、粤(ここ)に若年寄稲葉石見守正休は、其父伊勢守正能、先年駿府城に於て横死い砌家督家督無相違、其身へ被下、剰(あまつさ)へ其の後度々の御加恩にて、若年寄の高職を蒙うむられし御恩を、且夕に忘却せず、正俊の所行矩をこえて、大事に及ん事を欺き、時の口論に事寄せて、殿中に於て正俊を刺す。正俊一刀に命を損さると雖も、殿中と云い、殊に威厳高き羽林を害せらるゝ事なれば、争いで安穏に置くべきや、段中の人々立かゝりて石州をずたずたに斬り屠(ほふり)られけるこそ是非なけれ、斯て正俊の家鋪へは、天下の諸士群りて其変を弔す、石見守屋敷へは、他の人は云にや及ぶ、親戚たる人迄も慮して、誰も音信(おとずれ)る人も無りしに、濁水戸黄門光圀卿、自ら石州の屋敷へ渡らせ給ふ、石川の室家迄御呼出し有て、悃(まごころ)に弔慰有て帰らせ給ふとぞ、寔(まこと)に石州は室家の亡滅に換て、不臣を討つ、今古独歩の傑士孰れか是を嘆息せざらんや、されば石州の忠誠は空しく匿(かく)れ、正俊の遺跡は無相違、息下総守へ賜ふ、
石見守は亡名な遣されける事、偏に宿因の成す所なるべし。

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