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馬場美濃守の後裔 馬場与三兵衛

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馬場美濃守の後裔 馬場与三兵衛

 朝気村(現甲府市朝気)

『甲斐国志』第百八巻士庶部第七浪人馬場彦左衛門ノ家記ニ云、馬場美濃守ノ孫同民部ノ末男丑之介壬午(天正拾年)ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村(朝気)ニ移居シテ与三兵衛ト更ム。其男四郎右衛門、其男善兵衛(元禄中ノ人)今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ善兵衛ノ子弟分流ノ者アリ皆小田切氏ヲ稱セリ。
 元禄十一年戊寅年ノ村記ニ依ル苗字帯刀ノ浪人馬場惣左衛門ノ妻ハ江戸牛込馬場一斎ノ女トアリ。善兵衛(六十歳)総左衛門(三十八歳)新五兵衛(三十三歳)三人兄弟ナリト云 

 自元寺 二十六世大仙秀雄大和尚談 
 馬場信房の石塔は始め寺僧の墓と並んでいた。区画整理の都合で馬場祖三郎家に接して建てられた。
 「馬場ほの」氏の夫、祖三郎氏は養子で、白須から甲府市に移り開狭楼(かいこうろう)という料亭を営んで居られたが、今はその子孫が東京の武蔵野市に住んで居られる。同家の白須の屋敷は広大で、当時の菅原村が買い取った。(現診療所)この屋敷に大欅と大きな石祠とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪塔は動かさずに保存してほしいと申し込んであったが、祖三郎・ほの両氏が他界された後は、五輪塔は郷社八幡神社の裏に写された。このままでは馬場祖三郎家の五輪塔かわからなくなるので、当主に説いて、自元寺の現在位置に移した。
 筆註…
 この開狭楼の土地は現在の白州町診療所のある一帯で国道を挟んで存在する。土地の持ち主は分散している。又少し離れた場所に若宮八幡神社の神主石田備前の屋敷地がある。国道が通る前は現在の白須上公民館の付近も石田備前の屋敷地であった。当時の石田備前の勢力は大きく、白州一帯や小淵沢の神社の神官であった。自元寺や若宮八幡と深い関係にあった人々に江戸幕閣にも名を連ねる白須甲斐守がいる。若宮神社改築の際には多額の寄付をされている。白須家は古く平安時代から白須を中心に栄えた。現在の白須・殿町などは白須家との関係が深く、一部白須地域にある馬場美濃守の屋敷や土地とされているものは間違いで、殆ど白須家のものであり、馬場家の屋敷は白須には無く、武田の重臣だった美濃守は武田館(現、武田神社)の前にあった。白須氏は現在その殆どが富士吉田地方に移住されている。

 
甲府市泉町 開狭楼主人 馬場胆三郎氏
 「甲府のふるごと」より
甲州の誇りとする、奇骨の名書伯、三枝雲岱翁の第三女を母とせる馬場氏は北巨摩熱見村の百家細田家に生れた人、斉嘉氏の三男で明治六年一月十八日生れ、三十八年六月馬場山三郎氏(娘、ほの)の養子となり、大正三年七月家督を相続したもので、先代より料理業を継承して開狭楼と称し、旧来の内外の装備を一新その規模は県内屈指の大料理店として押しも押されもせぬ第一流であることは周知である。大正六年株式合祀甲府料理業組合の設立されるや推されて取締役となり、大正十年組合の改組成りて、組合長に抜擢されて組合強化の為に大にその力を発揮し、地域の有力なる人材として業界に重きを為したことも人の知る所である。望仙閣等と並び甲府市の三大料理店でもあった。
近年開狭楼の本館に続いて横町の繁華街に沿って洋館の大ホールを作り、王突の設備も備え、洋食に於いては正に県下第一とされている事も亦一般の知る所であって、観光都市としての甲府市の発展の上からも、開狭楼こそ正に大料理店である。云々。
 
『馬場祖三郎家由緒書』
開基馬場美濃守源公
法号 乾叟自元居士
 公七世外孫出家得法同牛込御龍山松原禅寺向陽院惟庸字古同敬書       
信州槙嶋城主甲国武田旧臣新羅(三郎義光)后胤馬場美濃守源公諱信房
始称敬禮師(けいれいし)民部少輔諱政光
 
天正三年乙亥五月二十一日六十三歳、或作四。
役于参州拾長篠西北之向瀧川橋場自殺。
従者斎遺骨少帰州臺原(台ケ原)墓石朱地
或云、武川之白須村於自元寺以佛古又祭法号如前面矣聞
自元之神儀弊壊新之贈寺且欲迎其壊於家而仰鎭護也。     
  柳營幕下小臣
 居武州豊嶋郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長
 旧名義教 拜自 
 
***筆註***
これは甲府桜町「開峡櫻」の主人馬場祖三郎氏(当時)の古文書に見える。馬場祖三郎氏は『馬場彦左衛門家』の家系に繋がる。
 
又自元寺は天保十四年(1843)に現在地に移つる。(棟札)
 
◎ 『自元寺由緒書』末尾
 
 享保十二年(1727)江戸大塚住旗本馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二年ノ冬御位牌修理補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余自元寺住職恵光代。
 
   馬場美濃守信房    号 乾叟自元居士 『自元寺過去帳』
   馬場民部少輔信忠  号 信翁乾忠居士 『自元寺過去帳』
   馬場民部少輔信義
『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行
 
 自元寺開基馬場美濃守信房始メ号教来石民部少輔到信玄公美濃守信房改被下信虎・信玄・勝頼三代武田家爪之老臣云享禄四年十八歳ノ初陣ヨリ数十余度ノ戦ニ高名ヲ露シ一生終ニ疵ヲ不蒙然而
天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠合戦引受け家康・信長等大敵其日兼而遺言シテ思定メ討死にスト云長篠ノ橋場ヨリ只一騎取テ返シ深沢谷ノ小高キ処ニ駆ケ揚リ馬場美濃行年六十二歳首取リテ武門ノ眉目ニセヨト呼ハリケレバ敵兵聞テ四五騎四方ヨリ鑓ヲ付信房太刀ニ手ヲ掛ケズ仁王立ニ成テ討セシハ前代未聞ノ最期也  
 首ハ河合三十郎ト云者討取ル 兼テ遺言ヲ承リシ家臣原四郎遺物遺骨を持来於甲州自元寺法事等相勤 法名乾叟自元居士 墓所白須有也
 享保十二年丙牛年江戸大塚住旗本大番馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二ノ冬御位牌修補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候 此方ヨリ返事礼状 仕候喜八郎殿知行四百石余 自元寺住職恵光代
 
 一、馬場美濃守信房 号 
   乾叟自元居士、馬場民部少輔信忠 又云フ初ニ信春於信州深志城討死
 一、号 信翁乾忠 此ノ二代御位牌立成過去帳記載有之候
 一、馬場民部少輔信義初号 勘五郎 此代家康ヘ御奉公相勤候
  自元寺 馬場美濃守の位牌
   正面  
開基馬場美濃守源公法号乾叟自元居士
   右
柳営幕下小臣武州豊島郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長
旧名義教拜白左公七世外孫出家得法同牛込
竜山松源禅寺向陽院惟庸字古同敬書
   裏面  
信州槙嶋城主甲国武田舊臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房
始稱敬禮師民部少輔諱正光天正三年乙亥五月廿一日六十三歳
或作四役于参州於長篠西北之間滝川橋場自殺従者齏遺骨少帰
州臺原墓石采地 或云武河之白須村於自元寺以佛古又祭法号
如前面矣聞自元寺之神儀弊壊新之贈寺旦欲迎其壊於家而仰鎮護也
自元寺馬場三代
一、信房法名自元乾叟自元居士
  天正三年乙亥年五月二十一日
於三州長篠討死生年六十三歳   
  家臣原四郎承遺言
 遺物遺骨等来於白須村自元寺法事相勤御墓名塔立来
一、馬場二代民部少輔信忠
 法名信翁乾忠居士 信房嫡子
 信忠或ハ信春と云
 天正拾年三月信州深志之城討死 
 自元寺過去牒ニ記墓所有之
一、馬場三代民部少輔信義
是ハ信忠の嫡子此の人始めて家康公に仕へ法名等相見不申 
右之通相違無御座候以上
   慶応四年戊辰七月 巨摩郡片颪清泰寺末
 筆註   
 三代馬場民部信義は『寛政重修諸家譜』によれば馬場美濃守の子供で長男が二代信忠で次男が信義(民部勘五郎)で「東照宮(家康)に召されて御麾下に列し、甲斐国白淵(洲)、教来石、台原等のうちにをいて旧地を賜い、天正十七年采地を加へられ、御勘気をかうぶる」とある。
 又『寛政重修諸家譜』の馬場信久の項に、「信保(武田信虎に仕へ、甲斐国武川谷大賀原(台ケ原)根古屋(中山高台)の城に住す」
-長男馬場美濃守信房-次男善五兵衛信頼、(兄信房の家嫡となる)-その子供が信久-その子供が信成で根小家に住み、武川の諸氏と共に徳川家康に仕え本領の地を給う(右衛門尉・民部)とあり、信義と信久は同一人物の可能性も有る。「根小屋」の地は現在も白州台ケ原の尾白川の対岸高台にあり、縄文・中性の遺跡も発屈されている。馬場一族として後世包含されているが、馬場美濃守と馬場信保の家系の繋がりは不詳。

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