武川村(町)の生活の歴史 江戸時代
《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》
○山高村は
☆寛文12年(1672)大田甚兵衛検地で高580石・反別58町5反6畝20歩,
☆貞享5年(1688)前島作次右衛門検地で高8石5斗・反別1町9反7畝4歩,
☆享保/7年(1732)遠藤又三郎検地で高6斗5升・反別9畝12歩増加し
合計高589石!斗9升・反別60町6反3畝6歩となった(延享3年(1746)差出明綱帳)。
村内は享保9年で家数83戸,このうち本百姓59戸、水呑百姓24戸,馬30疋・牛40疋、計70疋となっている(村明細帳)。
田畑では稲、粟,稗,菜,大根,大麦,小麦および煙草を少々作っており,耕作の余暇をみて薪を伐り出し韮崎宿まで付出し,商売を行った。
○三吹村は
寛文12年 南条喜左衛門検地,
貞享5年前 島佐次右衛門検地,
元禄7年(1694) 遠藤次郎右衛門検地
を経て,高651石9斗5升6合・反別75町8畝10歩となっている。
村は名主が2人で名主給11俵は6俵が上組70軒,5俵が下組50軒から出し,
定夫2人の給分籾7俵は4俵が上組、3俵が下組に割り当てられている(延享3年村明細帳)。
文政4年(1821)に水害などのため家数120戸のうち潰百姓20戸,潰百姓同様の者34,5戸と村内の被害が大きかった。
平常は稲のほか野菜、木綿、煙草,大豆,蕎麦,粟,稗などを少々作っている。