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武川村(町)の中世《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》

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武川村(町)の中世

《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》

武田氏と武川衆平忠常の反乱の追討を命じられた源頼信は乱を平定し,頼信の子頼義,孫義光はともに甲斐守となり,のち義光は常陸介を務めた。義光の子義清は官牧を手中に納め,以後清光,信義,信長,時信と継ぎ,武田一門は栄えていった。時信は多くの子を武川筋の諸村に封じ,山高,白須,牧原,教来石,青木氏らが起こったという(国志)。のち青木氏から折井・柳沢・横手・山寺・入戸野氏らが,また山高氏から溝口氏が分派したと伝えられる。永享5(1433)4,武田信光(信満)の子信長がこれらの武士を主カとする日一揆武士団を率いて、逸見・跡部両氏を主力とする輪宝一揆と戦ったが大敗し,柳沢,牧原、山寺の3将が戦死している(一蓮寺過去帳)
戦国期、武田信玄の頃には武川衆武士団が,信玄の弟左馬助信繁・信豊父子の寄子となっていて,永禄10(1567)8月の信州小県郡下之郷武田将±起請文には,武川衆柳沢信勝以下7人の士が連署している(生島足島神社文書).米倉氏と折井氏の知行天正10(1582)3,武田氏が滅亡し,6月本能寺の変後,甲斐国一円は徳川氏の支配下に置かれた。徳川家康は武川筋の武士団武川衆に対し,統率者である米倉主計助忠継,折井市左衛門次昌を介して掌握しようとした。同年発給の本領安堵状によると,分散知行のうち当村域では
折井次昌は新奥で2貫文,
青木信時は新奥で16貫文
,
小沢善大夫は牧原内飯田分4貫文
,
米倉信継の宮脇内10貫文
,
米倉豊継の宮脇村150貫文、同村小沢分2500

などが充行われている(徳川家康文書の研究上)
 武川衆は同13年小牧・長久手の戦に参陣し,尾張一宮城の守備や信州上田城の真田昌幸攻略に戦功があった。同18年正月、小田原北条氏攻略前には武川衆重恩として2,960俵が米倉・折井両氏に与えられているが,そのうち山高郷478俵余,三吹郷224俵余,牧原郷151俵余、宮脇郷84俵余と知行地が分布していた。これら知行地は米倉・折井両氏が各400,柳択信俊・山高信直が各60俵など配分されている。武川衆は徳川氏の甲斐入国とともに武州鉢形領と相州へ移った。その後,村域は羽柴秀勝,加藤光泰,浅野長政・幸長を経て慶長5(1600)関ケ原の戦後は徳川氏の再領となった。


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