武川村(町)の近世
《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》
- 江戸期の村々を治めていた人 石高
慶長6年(1601)大久保長安の総検地によって,
牧原村 知見寺越前知行地 195石余
柳沢村 馬場民部知行地 138石余 ・蔵入地2石余 計140石余
三吹村 知見寺越前知行地 129石余・蔵入地164石余 計293石余
新奥村 青木与兵衛知行地 84石余
山高村 山高孫兵衛知行地 275石余・蔵入地35石余 計310石余
宮脇村 米倉左大夫知行地 213石余・蔵入地124石余 計338石余
黒沢村 青木与兵衛知行地 88石余
となり,
当村域7か村は知行地1,127石余蔵入地326石余計1,453石余となった(慶長古高帳)。
これらにより武川衆は各旧領に復しているが,慶長8年(1603)徳川義直が甲斐国に封ぜられると
武川衆・津金衆20人が本領を給され,家臣団に編入された。
☆慶長12年には武川・津金衆は「武川十二騎」と称して城番を命ぜられ、山高親重,柳沢三左衛門,知見寺(蔦木)盛之らが2人宛交代勤番で付属した。
☆元和2年(1616)徳川忠長が甲斐一円を支配すると,武川衆は大番・書院番らに組み入れられて勤仕した.
☆寛永9年(1632)忠長が改易されると武川衆は一時処士となったが,
☆寛永19年(1639)旗本に復帰が許された。
山高信俊
このとき山高信俊は柳沢・宮脇で300石を拝領し,万治2年(1659)塵米200俵が加増され、寛文元年(1661)合計500石で下総・常陸へ知行地替えとなった。
このとき武川衆は本貫の地である武州筋の村域周辺の知行地を去った。村の支配は江戸中期には全域甲府藩領となり・後期には幕府領となった。