武川村(町)の生活の歴史 苦しんだ台ケ原宿助郷
《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》
○三吹村
元禄2年(1689)以後甲州道中台ケ原宿助郷役300石7斗を勤めた三吹村は,困窮のため寛政8年(1796)より免除され、代わって宮脇,黒沢,山高,柳沢,牧原,新奥の6か村が代助郷を勤めた。しかし,6か村も困窮化してきたので助郷勤高601石余の免除を願い出,吟味の結果,文化5年(1808)に大八田,塚川,長坂上条,渋沢の各村が代助郷を勤め,6か村には300石余の助郷勤高を申し付ける吟味申渡書が出されている(台ケ原宿伝馬助郷証文/甲州文庫史料)。村域諸村は約8割が山林であり、専ら田畑耕作に依存し,一部薪など韮崎宿で換金して生計を立てており,畑作も大部分は自給用であった。全体として「村々之儀ハ困窮村方ニ而,農業之間ニハ日雇稼ニ罷出,御年貢御上納之助ニモ仕候程之村方」という状態であった(甲州文庫史料)。
村域は水質・気候の条件が米生産地に適し,良質の米が生産され,産米は韮崎宿の米問屋に集散され,年貢米は廻米および甲府御詰米として韮崎宿を経由して江戸・甲府へ送られた。周辺には入会地があり,秣場として肥料の供給源となったが利用をめぐり山論などが頻発した。
○新奥村
村高・家数は一番少なく,他村と同じく田畑の耕作で生活を立てていた。
作成者 武川町散策編集室 : 2011年8月14日(日) 03:42
○柳沢村は
宝永2年(1705)商人4人が茶・塩を販売,男子は薪を韮崎宿で売り,女子は麻,木綿、布な
文政4年の農民構成は名主・長百姓が7戸,本百姓66戸,水呑百姓18戸となっており,村役人が多いのが特徴的である(村明細帳)。