武川衆が武蔵・相模に移る
徳川家康の甲州経営は、超人的熱意をもって実行された。天正十年七月八日、第二次甲州入り。中道往還を板原を経て甲斐に入る。以後北条氏直との抗争終結に至るまで在甲、十二月十二日甲府を発して遠江浜松に帰城。十一年三月第三次甲州入り、五月まで甲府滞在。同年八月一一十四日、第四次甲州入り、十二月四日浜松帰城まで。天正十二年四月、第五次甲州入り。六月七日浜松帰城まで、何回となく甲州の士に本領安堵の朱印状を与え、遺臣の中の有能の士を奉行ならびに代官に起用し、しきりに社寺領を寄進して復興につとめさせた。
武田氏の旧法・旧慣を改めることなく、諸般の吏員には武田氏の旧臣を用いた。度量衡の制・伝馬の制・生産交易の制、すべて旧慣に依り、諸役を免許して人心の収撹に努めた。
家康の、こうした施策によって、甲斐の民はこぞって家康の恩威に服したのであった。
天正十二年四月、羽柴秀吉が織田信雄と隙を生じた時、信雄は援を家康に求めた。家康はこれを諾し、秀吉を尾張長久手に遊撃、武川衆・穴山衆・甲州長柄隊三〇〇人が縦横に戦い、戦局を勝利に導いた。秀吉方は大敗北で、先鋒の将池田恒興、森長可が討死した。やがて秀吉が家康に和議を申入れ、家康がこれと和することになったが、交歓の席上秀吉の所望を諾した家康が、武田流長柄の冴えを御覧に入れようといい、甲州長柄隊三〇〇人の妙技を披露すると、三河武士たちは、甲州武士に対する家康の信頼の厚いのを大いに羨んだという。同年武川衆は尾張の一宮城守衛を命ぜられた。
翌十三年閏八月、信州上田城主真田昌幸が秀吉の意図によって家康に抗したので、家康は昌幸を討つ決意をし、武川衆に対し出陣に先立って人質の提出を求めた。真田氏と武川衆諸士は、武田時代以来親交があったからである。武川衆は全員いずれも妻子を人質にさし出し、上田城攻撃に出陣した。この攻城戦で徳川方は昌幸の絶妙な防戦に翻弄され、敗退させられたが、武川衆だけは戦果を挙げて、戦後、武川衆の人質は帰し与えられた。ところが秀吉と家康の間には冷戦が続き、家康は翌年正月、武川衆に人質の提出を要求した。この時、武川衆諸士は家康の要求のほか、兄弟親類までを人質として駿河に送り届けたので、家康は次の感状を与えて誠意を褒め、さらに去年秋、信州上田での戦功をも追賞した。
今度、証人の事申越し候処、各々馳走あり、差図のはか兄弟親類を駿州へ差越し、無二の段、まことに感悦し候。殊に去る秋の真田表において万事に精を入れ、走廻り候旨、大久保七郎右衛門披露し候、走れ亦悦害せしめ候、委細は両人申すべく候、恐々謹言。
差図のほか若衆まで妻子、駿州へ引越慌て、無二御奉公有るべきの由、御祝着に思召し候、殊に去る候、真田において大久保七郎右衛門申上げられ候、毎度御無沙汰存ぜられず候間、御喜悦成され候、恐々謹言。
天正十四年正月十三日
家康(花押) 武川衆中
天正十三年四月、家康は織田信雄を援けて秀吉を小牧・長久手に破ったが、秀吉は政略によって家康を屈服させようと謀った。七月、秀吉は朝廷より豊臣の姓を賜わり関白に任ぜられた。十月秀吉は家康の重臣石川数正を誘い、家康に背いて秀吉に仕えさせた。
数正が秀吉の陣に奔ると、家康は、武川衆折井次昌に信玄旗本大番六備軍令書を、米倉忠継に分国政務掟書・典厩信繁九十九箇条書をそれぞれ提出させた。武田氏の軍法をもって徳川の軍法に代えようとしたのである(『駿河土産』)。
家康は、新たに召抱えた武田家遺臣について、その人物の前歴をよく調べ、行政的才能の優秀なものを簡抜してその手腕を発揮させることにつとめた。
家康の関東移封につれて、武川衆諸士は、関東各地に封を受けることになったが、その最も多くは武州鉢形領に、一部は相模・下総の内に封を受け采地に任した。
○鉢形領(当時武蔵男余郡、いま大里郡)に封を受けた武川衆は次の人々が知られている。
山高信直・青木信時・折井次昌・米倉忠継・同豊継・同満継・柳沢信俊・山寺信昌
馬場信成・知見寺盛之・入戸野門宗・曲淵正吉・曽雌定政
○相模足柄郡に封を受けたもの
曲淵吉景・米倉信継
○下総匝瑳郡に封を受けたもの
折井次吉
武蔵鉢形領は鉢形城下の男余部諸村で、いま埼玉県寄居町・小川町付近一帯を含んでいる。