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甲府城番武川十二騎

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甲府城番武川十二騎
 
 武蔵・相模・下総の封地にあって、武川衆諸士が与えられた知行高は、暫定的の支給であったらしい。それは『武徳編年集成』に、「武川ノ士十四人、去ル天正十八年以来武州鉢形ニテ堪忍分ヲ賜ハリケル」とあることから推察される。堪忍分とは、遺族扶助料・暫定給に相当するもので、本給の内輪の給与をいう。例えば武川衆折井次昌は、天正十三年五月二十七日に家康より与えられた所領宛行状によれば、一七一貫四〇〇文余を受けていた。仮に一貫文を五石と見倣せば、八五七石となる。ところが鉢形領での扶持高は八〇〇石であるから、五七石の減俸となるわけである。また米倉忠継は、甲州では一、一〇〇石を知行していたが、鉢形領では七五〇石とされた。これが堪忍分といわれるゆえんである。
 武蔵・相模の封地に任した期間の武川衆に課された軍役に、文禄の役の出征将兵・兵器・糧珠の輸送用船舶建造用の木材を伊豆天城山から伐り出す作業を奉行することがあった。
 やがて慶長五年、石田三成の乱が起こり、信州上田城の真田昌幸・信繁(幸村)父子が石田方に通じて敵対したので、家康は嫡男秀忠に上田城攻略を命じた。武川衆も秀忠に属して奮戦したが、昌幸の頑強な抵抗に遭って城下に釘付けにされ、関ケ原会戦に参戦できなかった。
 戦後家康は、甲府藩主浅野幸長を紀州和歌山へ移して甲斐を直轄地とし、上州厩橋城主平岩親吉を甲府城代に任じ、国務に当たらせた。
 同八年四月、家康は当年四歳の第九子五郎太(義直の幼名)を甲府二五万石の城主とし、平岩親吉に五郎太の博役を命じて輔佐させた。親吉は、さきに五郎大の兄に当たる仙千代を養子としたことがあるが、慶長五年二月、仙千代が早世し、次いで五郎大の輔佐となったもので、いかに家康が親吉を親任したかが推察される。親吉が甲斐の領内に発給した文書・禁制の形式は、藩主のそれと適わない。それについて、世人は、平岩殿は五郎大君の叔父故であろうといった。親吉は、家康の
意を体して政務に励んだので領内はよく治まった。
 慶長十二年(一六〇七)閏四月、甲府城主徳川五郎太(義直)が、尾張前藩主松平忠吉の急死の跡をうけて、同藩主となったので、城代平岩親吉も尾州犬山藩主に転封となった。
 
甲府城番武川十二騎
ここにおいて、幕府は武川・津金両衆の中から一二人の人材を、二人ずつ一組に交代して甲府城守衛に当たらせた。これが甲府城番武川十二騎で、名誉ある職務であった。十二騎は次の通り。
 山高孫兵衛親重 馬場民部信成 育木与兵衛信安 米倉丹後守信継 
 知見寺越前守盛之 折井仁左衛門次書 入戸野又兵衛門光 
 山寺甚左衛門信光 柳沢三左衛門 曲淵筑後守吉清 小尾彦左衛門重正 
 跡部十郎左衛門胤信
 
右のうち、小尾重正と跡部胤信とは津金衆の士で、武川衆一〇人とともに城番に選ばれたものであるが、大多数が武川衆であるので、二人を含めた一二人を武川十二騎ということになったのである。
 武川十二騎は、慶長十二年(一六〇七)から元和二年(一六一六)九月、松平忠長が甲斐に封ぜられるまでの一〇年間、交代制により甲府城守衛の任に当たり、よくこれを果たした。
 後世、武川十二騎の名が有名なので、武川衆の代名詞のように用いられることがあるが、武川衆と武川十二騎とは明瞭に区別されねばならぬ。
 

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