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天生十年 徳川家康と武川衆

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天生十年 徳川家康と武川衆
 家康は、岡崎に帰るや天生十年五月六日、駿河清水城主岡部正綱に書を与えて甲州下山城修築を命じ、次いで穴山衆を率いて武田遺臣を招致させた。
 智将のもとに凡士なし。家康の部将大須賀・岡部・曽称昌世らの手腕は鮮やかであった。古文書によれば、岡部・曽雌は、六月十二日武田遺臣加賀美右衛門尉の本領四三貫文余、同十七日同窪田助之丞の本領八八貫文余を安堵した。大須賀は同二十日西郡鷹尾寺の寺領、同二十六日に府中一蓮寺の寺領余を安堵し、民心の安定に努めている。
 
家康の部将らの甲州における迅速臨機の宣撫工作が、北条氏の機先を制したのであった。
 これより先、家康は遠州小川村に潜ませて置いた依田信蕃に飛脚を発し、その腹心柴田康忠・本多正信と、速かに甲信に入り、旧好の士を招集することを命じた。信蕃は従者五人と急ぎ中道往還を甲斐に入り、康忠と信蕃の旗を柏坂頂上に立て、陣鐘を撞いて士を招いた処、集まる者一、〇〇〇人に及んだ。信蕃はこの勢を率いて二十三日に信州に入り、蓼科山中に芦田小屋の要害を築いて鎮撫に従った。
 家康は、十七日一族の遠州横須賀城主大須賀康高に命じ、成瀬正一・日下部定好を率いて甲州鎮撫に従わせた。康高は市川に陣した。
 成瀬正一は、去る三月に武川衆の旗頭米倉忠継・折井次昌を家康に従わせ、遠州桐山村にかくまった人である。ここにおいて米倉・折井らは桐山村を立ち、成瀬に従って入甲し、武川衆数十騎を説得して悉く家康に属させた。
 これより先、信長の死の関東に伝わるや、相州小田原の北条氏政、早くも甲斐・信濃・上野の地に注目し、これを占領しょうとした。六月十五日、氏政はその崖下甲斐郡内忍草村の士渡辺庄左衛門尉に帰国させ、故旧を糾合して北条氏に応じ、忠信を励むときは旧領を安堵し、戦功により恩賞するの旨、約させた。
 また、氏政は弟安房守氏邦に命じ、甲州山梨郡聖家族大村忠尭・同忠友を誘い、中牧・大野の両城に拠り味方することを誓約させた。
 六月十六日-七日ころ、大村一党は兼約により、万力筋中牧城、栗原筋大野城に拠って北条方の旗職を鮮明にし、反徳川の行動に出でた。ここにおいて氏邦は雁坂口より」 また北条氏勝は武州小仏口より甲州へ攻入ろうとした。
 徳川方は早くもこれを知り、穴山梅雪楠子信治の将有泉昌輔・穂坂君
苦らは機先を制して大村党の拠点中牧・大野両城を陥れ、忠尭らを討取
ったので、氏邦らは秩父へ敗走した。家康は二十二日、昌輔・君書に感
状を与えた。
 当時、家康はまだ遠江浜松に在城していたが、その頃北条民政の嫡男氏直が大軍を率いて佐久に侵入しようとするの風聞が頻繁なので、いよいよ甲信平定の軍を率いて七月三日浜松城を出馬、掛川、田中、江尻を経て六日清水に着陣、家康は、駿甲国境において九一色衆の出迎えを受けた。ここよりは九一色衆の常導により中道を北進し、同夜は精進に着陣、泊。九日、女坂(阿難坂)を越えて柏坂(迦葉坂)のほとりに着陣するや、武川衆柳沢信俊・山高信直・青木信秀・折井次正・曲淵吉景・伊藤重次・曽雌定政・馬場信成・知見寺盛之・入戸野門宗・山寺信昌・多田昌綱らをはじめとする六四士が迎え謁したので、家康は大いに喜んだ。この日夕刻には武川衆を従えて甲府に着陣した。
 家康は、九一色郷には七月十二日付、右左口郷には同二十三日付で、武田民時代の先例のまま諸商売役を免許する旨の朱印状を賞賜した。
家康は、武川衆組頭米倉忠継・折井次昌両人が早く家康に帰属して、武川衆の全員を招致した功を賞し、七月十五日に感状を与えた。
 これより先、七月早々北条氏直の先鋒は信州佐久郡に侵入、依田信蕃の城を攻めた。信蕃は援を大久保忠世らに請うた。十二日、忠世は柴田康忠を達して信蕃を援け挽回した。
 この日氏直は四万の兵を督して海野へ陣を進めた。甲州金山衆所蔵文書によれば、七月十三日に真田昌幸をはじめ信州衆が氏直に出仕したとある。
 氏直は川中島占領を企てたが、上杉景勝に妨げられて失敗、甲州侵攻に方針を変えた。
 家康の将酒井忠次は、七月十五日信州諏訪を攻めるに決し、諸将に十七日に台ケ原・白須に集結するように命じた。地元の武川衆諸士は饗導として活躍した。忠次は全軍を率いて諏訪高島城を攻めた。
 八月一日の情報で、忠次は、氏直が四万余の兵を率い、佐久郡の千曲川に沿って海野口より八ヶ岳の裾を横断して甲斐に入り、若神子に下って新府の陣を襲おうとするを知った。そこで忠次は高島撤退を決意し、三日、陣営を自焼して乙骨(富士見町)に退いた。
 はたして氏直の軍は六日、大門峠を越えて棒道の終点柏原に迫った。忠次は、武川衆曲淵吉景によって新府に退いた。
 七日、氏直の大軍は若神子に到着した。氏直の諸将は遠近の士を味方とし、若神子以北の地は北条勢の占領下同然に見えた。
『家忠日記』にいわく、
  八月六日、相州民直、人数二万余、押出し慌て、味方人数二千余、新府迄引取り候。敵かけ付
侯、敵一里程に陣取り候、古府中人数少々かけ付候。七日、敵備え押出し候。味方備も新府山
へ出候、敵半里程に陣取候。八日、家康、古府中より新府へ物見に移られて、相陣成り候。十
日、家康、陣を新府城え寄せられ候。十一日、新府むかいにあら城普請候。十二日、都留郡よ
  り、伊豆北条新左衛門介、古府中近所黒駒迄働き候、古府中留守居衆かけ合せ、随身者三百余
り討取り侯。
  
 記事の中、新府むかいのあら城とあるのは、塩川左岸で新府に対している日之城砦である。
 北条氏が甲斐の経略に着手するや、武田家遺臣を味方につけるために手を尽くした。それは甲州入国以前にすでに始められていたことが、北条家の重臣黒沢繁信より七月十八日付で甲州金山衆に宛てた書状で知られる。
 八月六日、北条氏直の勢が甲州に侵入すると、地元の有力武士を味方とすることに力を注いだ。十日ころ、氏直は中沢縫殿右衛門尉・同新兵衛尉の二人(逸見筋)に命じて計策の状を作り、これを持って武川衆諸士の説得を試みさせた。
 三月以来家康に心を寄せていた武川衆の領袖、山高・柳沢・折井ら諸士は中沢を討ち、その首級を家康に奉った。このことは、『譜牒余録後篇』折井市左衛門の項に、
「然る処に、北条氏直より、計策の者中沢縫殿右衛門、同新兵衛両人差越され候間、武川之老共同一致し、両人共に討取り、其の謀書共に差上申し候」とある。
 家康は、武川衆の忠誠を誉めて八月十六日、その所領を安堵した。
「山高系図」のうち、信直の譜に、
「御対陣の内、重ねて北条より武川の者共味方せしむべきの計策状、取次の侍、中沢縫殿右衛門・同新兵衛の両人、各々相談を以て討捕り、其の状共に指上げ、忠節を尽せし故、本領安堵の御朱印を下し給う。」
 同じ日に青木尾張守、柳沢兵部丞が受けた本領安堵状は、古文書に収められている。柳沢兵部丞の分を次に示そう。
 甲州柳沢の郷七拾貫文。新恩として壱貫五百文藤右衛門分。壱貫文五味分の事。右、本領たるの由言上侯間、前々の如く相違有るべからず。此の旨を守り、軍忠すべきの状、件の如し。
 
天正十年十月、新府において権現様は八千の御人数、北条殿五万にて御対陣の時、甲州・駿河の侍衆を召抱えられ、恵林寺を前々の如く取立て供え、また田野は勝頼切腹の場に候間、寺を取立て供え、其の郷いかほどこれ有るとも下さるべき由にて、此の寺立ち申候(下略)
 とあって、当時の家康の意中をうかがわせる。
 八月二十一日に、家康は武田氏旧臣八九五人を遠江国秋葉神社社前に集め、自今以後忠功を励んで無沙汰をしない旨を誓約した起請文を提出させた。これらの諸士は、武田親族衆・信玄近習衆・遠山衆・御岳衆・津金衆・栗原衆・一条衆・小山田備中衆・信玄直参衆・小十人頭子供衆・典厩衆・山県衆・駒井右京同心衆・城織部同心衆・土屋衆・今福筑前同心衆・今福新右衛門同心衆・青沼助兵衛同心衆・跡部大炊同心衆・跡部九郎右衛門同心衆・曽根下野同心衆・原隼人同心衆・甘利同心衆・三枝平右衛門同心衆・寄合衆・御蔵前衆・弐拾人衆などであった。
 この時の起請文を世に壬午起請文という。
 徳川・北条の若神子対陣の最中に、家康がこのように甲州の民心収携に大きい成果を挙げたのに対し、氏直は大軍を擁しながら進退両難に陥り、これを憂えた氏直の側近らは協議して、家康との間に和平工作を進めることとし、家康に和議を申入れた。条件は、甲州都留、信州佐久の両郡は徳川が、上州沼田は北条が領することとし、家康の息女を氏直に嫁がせることで、十月二十八日に和議は成立した。
 徳川、北条の二大勢力による甲信二州争奪戦は、徳川方の圧勝のうちに終わった。しかも徳川方の勝利の裏に、旧武田家臣の諸士、中でも武川衆・津金衆の諸士の活躍による戦果があったことを、家康は深く銘記していた。
 家康は、武川衆の武功に報いるために、感状・安堵状をしばしば与えている。すなわち、
七月十五日に米倉忠継・折井次昌両人に感状を、
八月十六日に青木信時・柳沢信俊両人に、
同十七日に折井次昌・名執清三両人に、
九月一日に山本忠房に、
十二月七日に折井次忠・小沢善大夫・米倉信継・同豊継・同定継・青木信時(第二次)・柳沢信俊(第二次)・横手源七郎・曲淵正吉ら九人に、
同月九日に名執清三に、
同月十日に山本忠房(第二次)にと、以上一六人に本領安堵状を発給している。
これに山高信直の辛が見えない。
 さらに家康は
同月十一日、武川衆曽雌定政ら二六人を武川次衆に公認する旨の印書、「武川次衆定置注文」一遍を発給した。すなわち家康は七月以来感状二通、安堵状一六通、武川次衆定置注文一通、計一九通を
発給している。
 家康が天正十年の一年間に発給した書状は、すべて二一九通である(『徳川家康文書の研究 中村孝也』)。その中で武川衆宛てのものが一九通を占めるということで、家康の甲信二国経略の過程における武川衆の働きが、いかに重要なものであったかが推察できよう。
 前記の「武川次衆定置注文」は、家康が新規に武川衆として公認した諸士の名簿である。

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