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天正壬午前後の武川衆 武田から徳川へ

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天正壬午の武川衆
資料―「武川村誌」一部加筆
 
武田家没落当時における武川衆の進退について、『甲斐国志』は次のように述べている。
 
正壬午ノ時、新府ニテ勝頼謀略アリテ、面面ノ小屋へ引入アルべシトノ儀ナリ、各々其ノ意ヲ守リシカドモ、其ノ謀相違セシ故、武川衆ニハ勝頼ノ供シタル人ナシトアリ。
 
と。はたしてこの文のいう通りであろうか。
 元来、武川衆は武田左馬助信繁、同子息信豊を寄親とする武士団であった。それは、永禄四年九月の信州川中島合戦の際、武川衆の面々は武田信繁指揮下の典厩衆の幹部として活躍した。信玄の本陣八幡原の前方左翼を固めた典厩衆は、敵の最強部隊の強襲の前にさらされ、隊長の信繁は不運にも敵弾に来れ、敵に首級を奪われた。馬廻りの武川衆山高親之は直ちにその敵を追跡してこれを討取り、信繁の首級を奪還し、大将信玄に献じて質された。
 永禄十年八月、甲信西上州三か国の武田将士が信州下之郷諏訪明神社前において、信玄に対し絶対忠誠を誓った起請文提出を命ぜられた時、
柳沢・馬場・宮脇・横手・青木・山寺らの武川衆諸士は、六河衆(武川衆の宛字)の名のもとに起請文を一紙に連署して、寄親の六郎次郎に宛てて差し出した。六郎次郎は武田信豊の通称である。
 この二例は、武川衆が武田信繁・六郎次郎の二代にわたる寄子であることを語っている。
 
ところが勝頼滅亡ののち徳川家康に召抱えられた武田遺臣が、連署提出した起請文のうち、後典厩衆すなわち武田左馬助(後典厩)を寄親とした武士が三三名いるが、その中に武川衆は一人も含まれていない。(略)
『甲斐国志』に、
「天正壬午ノ時、新府ニテ勝頼謀略アリテ、面々ノ小屋へ引入アルべシトノ儀ナリ、各々其意ヲ守リシカドモ共謀相違セシ故ニ武川衆ニハ勝頼ノ供シタル人ナシトアリ。」
 
と記すように、当時信州小諸城を守った後典厩信豊と、武川衆とは全く別行動をとり、武川衆は勝頼の密命のままに各自の壁砦(小屋)において待機したのであったが、戦局の悪化が意外に速く、不運な勝頼は武川衆に出陣の機会を与えずに没落したのであった。
 こうして武川衆は遂に活動の機を得ないで主家の終焉を見送り、徳川家康の招致を受けてその幕下に属することになったのである。
 
 
 家康は市川の陣において側近成瀬吉右衛門尉正一に命じ、武川衆招致の方策を立てさせた。武川衆米倉主計助忠継の譜にいわく、
 
天正十年三月勝頼没落の後、織田右府より武田家の士を扶助する事を禁ず。
 これによりて東照宮、成瀬吉右衛門正一を以て潜に命を伝えられ、折井市左衛門次昌とともに、甲斐国市川に於いて見え奉り、月俸を賜い、仰によりて遠江国桐山に潜屈す。
 
と。折井次昌・山高信直の譜も同内容である。
 三月十七日信長の書状に、
  
去十一日四郎(勝頼)、これを討捕り、首到来し候。典厩事、西上野近辺小諸城楯寵り候、是も
  出羽守忠節として首を切り到来、四郎弟仁科五郎、高遠城相抱え候を打果し、是も首到来候。
甲斐歴々の将兵共、大略首を撥ね候、又降る人出で候族、数を知らず候、是は生害させ候者、   
数多候。
 
とある。四郎は勝頼、典厩は武田信豊、出羽守は小山田信茂。信長の残忍さが思われよう。
 これより先、織田信忠は高遠城を陥れた翌三月三日、兵を諏訪に進めて諏訪明神上社を焼討し、社前の法華寺に本陣を構えた。十九日、信長もここに来着、武田家旧領の処分と論功行賞をした。徳川家康は駿河を、穴山梅雪は甲斐河内領を、河尻秀隆は甲斐(河内領を除く)を、滝川一益は西上野を行質された。また、武田家一族重臣の処刑が連日にわたった。
 四月二日、信長は上諏訪を立ち甲斐に入った。同夜は台ケ原に泊り、三日は花水坂を越え、新府城焼跡を一覧ののち甲府に着した。
 この日、信忠は武田信玄の菩提所恵林寺を焼討した。寺主快川国師が武田氏の賓客佐々木次郎をかくまったことが焼討の理由である。信忠は快川らを寺の山門楼上に追上げ、楼下に火を放った。快川は長老以下百余僧の座を定め、火定の侶を諭した。
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」
と。わが禅道のため万丈の気を吐いたものである。国師は美濃の人、天文二十四年、永禄七年の二度、武田信玄の請を受けて恵林寺に住山、信玄の葬儀の導師を勤めた。
天正九年 信長は四月二十一日安土に帰城した。
五月十五日、家康と梅雪は論功行賞謝礼のため、安土に伺候した。信長は両人の接待役を明智光秀に命じて置きながら、俄かに光秀に備中出陣を命じたので、憤った光秀は六月二日、信長箇宿所京都本能寺に、信忠を二条城に襲って殺した。
 時に家康・梅雪は泉州堺に在ったが、報を得て直ちに帰国の途に向い、家康は危難を冒して四日夜三河岡崎に安着した。梅雪は家康と別れて帰国の途を一揆に襲われ、殺された。

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