芭蕉 神田上水工事 勤務
喜多村信節編『嬉遊笑覧』文政十三年(1830)引用
『筠庭雑録』天保十四年(1843)引用
延宝八年六月「役政日記」による。
六月十一日
一、明後十三日、神田上水水上惣掛有之候間、致相封候町々は桃青方へ急度可申渡侯。桃青相封無之町へ爲行持、明十二日早天に杭木かけや水上に致持参、丁場請取可申候。勿論十三日中は水きれ申候間、水道取候町々は、左様相心得可相場候。若雨降り候はゞ、惣払い相延候間、左様相心得可申候。以上
六月十一日 延宝八年 町年寄三人
【註】町年寄三人(喜多村彦兵衛・奈良屋市右衛門・樽谷藤植右衛門)
覚
延宝八年の神田上水惣払 町触に、
六月二十日
一、明二十三日、神田上水道水上惣払有之候間、桃青と相対致候町々ハ、急度可申候。相対無之町々者、人足に道具を為レ持、明早天、水上佳之へ罷出可レ被レ申候。勿論明日中水切可申候間、町中不レ残可レ被二相觸一候。少も油断有間敷候。
【註】信節は江戸時代末期の考証家として著名であり、決して無根の言をなす人ではないから、この資料も信頼できるものと思はれる。これによって延宝八年六月に、芭蕉が神田上水の工事に関係したことが明らかになるのであるが、彼と水道工事との関係は、信節よりもはるかに早く、『本朝文選』の芭蕉伝に、
嘗世爲レ遺レ功、修二武小石川之水道一四年成。速捨レ功而入二深川芭蕉庵一出家。
年三十七。
〔読み下し〕
「明後十三日、神田上水道、水上総掛りこれ有り候ふ間、相対致し候ふ町々は、桃青方へ急度申し渡すべく候。」の記事と、「明二十三日、神田上水道、水上総掛りこれ有り候ふ間、桃青方へ相対致し候ふ町々、急度申すべく候。相対これなき町々は、人足に道具を持たせ、明早天に水上へ差出し申すべく候。勿論明日中、水きれ申すべく候ふ間、町中残らず相触るべく候。
喜多村信節編『嬉遊笑覧』文政十三年(1830)引用
『筠庭雑録』天保十四年(1843)引用
延宝八年六月「役政日記」による。
六月十一日
一、明後十三日、神田上水水上惣掛有之候間、致相封候町々は桃青方へ急度可申渡侯。桃青相封無之町へ爲行持、明十二日早天に杭木かけや水上に致持参、丁場請取可申候。勿論十三日中は水きれ申候間、水道取候町々は、左様相心得可相場候。若雨降り候はゞ、惣払い相延候間、左様相心得可申候。以上
六月十一日 延宝八年 町年寄三人
【註】町年寄三人(喜多村彦兵衛・奈良屋市右衛門・樽谷藤植右衛門)
覚
延宝八年の神田上水惣払 町触に、
六月二十日
一、明二十三日、神田上水道水上惣払有之候間、桃青と相対致候町々ハ、急度可申候。相対無之町々者、人足に道具を為レ持、明早天、水上佳之へ罷出可レ被レ申候。勿論明日中水切可申候間、町中不レ残可レ被二相觸一候。少も油断有間敷候。
【註】信節は江戸時代末期の考証家として著名であり、決して無根の言をなす人ではないから、この資料も信頼できるものと思はれる。これによって延宝八年六月に、芭蕉が神田上水の工事に関係したことが明らかになるのであるが、彼と水道工事との関係は、信節よりもはるかに早く、『本朝文選』の芭蕉伝に、
嘗世爲レ遺レ功、修二武小石川之水道一四年成。速捨レ功而入二深川芭蕉庵一出家。
年三十七。
〔読み下し〕
「明後十三日、神田上水道、水上総掛りこれ有り候ふ間、相対致し候ふ町々は、桃青方へ急度申し渡すべく候。」の記事と、「明二十三日、神田上水道、水上総掛りこれ有り候ふ間、桃青方へ相対致し候ふ町々、急度申すべく候。相対これなき町々は、人足に道具を持たせ、明早天に水上へ差出し申すべく候。勿論明日中、水きれ申すべく候ふ間、町中残らず相触るべく候。