柳沢吉保は、甲斐の武田の支流にて、柳沢兵部丞信俊が孫なり。信俊が二男を、刑部左衛門安忠と云ふ。元和元年より駿河大納言殿につかへ、寛永十六年にめし返されて、上総国市葉村にて采地を賜ひ広敷番となり、又館林殿につけられて、延宝三年に致任し、貞享四年に死す。吉保初名は弥太郎房忠といふ、後保明に改む。
*寛文四年に初めて常憲公に見え奉り、交の後を継て百五十石を領し、三百七十俵を加ふ。*同八年に本丸の小納戸となり、
*貞享二年の冬叔爵して出羽守に任ず。是より先に、頻りに加恩ありて、
*元禄元年十一月地加へられ、始て万石の列となる(和泉上総にて万石加へられ、合せて一万二千三十石)。この比、公(綱吉)盛んに文学を好みて、吉保を以て弟子とし、学問怠らざるを賞して、骨子の像を画きて之を賜ふ。
*天和二年の正月元旦、読書姶の式を行はれしに、吉保をして、大学三綱領の章を講ぜしめ、永例として年々之を仕ること怠らず。此の時松平忠周、喜多見重政の列に同じく、内外の事承るべしと命ぜらる、「御用御取次」と云。
*三年三月二十六日、二万石を増し、十二月廿五日、年比の勤労を賞して、四品にのぼり、二本道具(鎗)もたすべき旨を命じ、四年三月はじめて其の邸に臨む。これよりさき、邸内新たに殿舎を経営す、結構宏麗、臨駕の日、母妻子及び一族等に至るまで、皆拝謁して物賜ふこと、あげて数へがたし。吉保も亦数々の宝貨をささげ、山河の珍味をつくして之を饗す。これより後、しばしば臨邸ありて、凡そ五十余度に及ぶ。先親から経を講じ又は武芸を試み、家臣等をして経を講じ、義を論ぜしめ、又猿楽を催し、宴楽を開くこと、いつもかはらず。
*五年十一月、三万石まして六万二千余石になり、七年正月には、又一万石を加へて、川越の城主になさる。十一月二十五日、老中に同じく評定所に着座し、侍従に昇る。
*十年七月、東叡山に根本中堂営まれしに、惣奉行となり、二万石をくはへ、十二午七月、其の落成の功によりて、左近衛少将に昇り、中堂長時不断の燈をかかぐ。これ延暦中比叡山の常燈を、忠仁公勅使として掲げられし例に倣はれし所也。九月八日、紅葉山拝礼の先立を勤む。これより三山の拝礼に、父子代る代る先立を勤む。
*十四年十一月二十六日、臨邸の時、父安忠より以来、忠貞をつくすこと、凡そ臣たる者の模範たるべしとの旨を以て、松平の称号をゆるされ、講の字賜はりて、松平美濃守吉保と改む。子三人も同じく称号をゆるし、長子安輝は諱の字賜はりて、吉里と改む。十二月二日、吉保を少将の輩に列し、官位年順たるべしと命ぜられ、
*十五年三月九日、桂昌院尼を一位にすすめられしこと、蕾保が申し行ふ所なればとて、又二万石をまし、合せて十一万二千三十石になる。
*十六年正月三日謡初の式に、曹保父子に大広間にて盃賜はるべしとありしが、吉保切に辞して、子吉里にのみ賜はれり。十二月二十一日、将軍の儲嗣に定まりしこと、偏に吉保が執り行ふ所にして、何事も整備一事の欠漏なきを賞し、殊に甲斐の国府の城を賜ふ。其の税額は二十万石に余りぬれど、猶十五万千二百八十八石余と称す。これより後は、甲斐国主と称すべしと命ぜられ、
*宝永三年七月二十九日、甲府に於て私に金貨を造ることをゆるされ、九月四日に打物もたすることをゆるし、此の日隠居して保山入道と号し、此の後も時々の恩遇、在職の時に異ならず。歳毎の正月七日には、羽織著して登営し、大奥までもまかりて、御台所を拝すること年々かはらず。
*正徳四年十一月二日卒、年五十七。
此の人の一代、殊に恩寵を蒙りて、身の栄耀を極めしことは、徳川氏勲旧、前後諸臣のなき所にして、威福を弄し奪俗に耽りしこと、亦世の頬ひなき所なり。但し性質佞才ありて、能く迎令に巧みに、陽に忠実を以て君の信を得、希代の寵遇を蒙りしは、偏に便嬖の致す所なり。されど性亦謹慎にして、敢て虐悪を肆ままにするの心あるに非ず、是其の始終君寵を失はざりし所以なるべし。
(保山行実に、日々御登城被遊候へ共、暁六半時比、御城詰御小姓衆迄、御手紙にて毎夜の御機嫌御伺被遊候、又常に常意公の為に、男子誕生あらんことを祈られし由見へ、又蔵
人は、権現様の御名故、後々迄も、遠慮可仕旨被遊御意候とあり、是等の事、以て其の小心なることを推知すべし、又鳩巣の手簡に、瑞春院御前へ、保山事被罷在、御仕直之改り候事共、色々被中上候て、近年御徒之内何某、深川にて魚を釣、生類御憐みの御法を侵候に付、流刑に仰付置候、然る所、其の者を被召返、御赦免被成候迄にても無之、此の間、野へ御供も無構相勤候様被仰出候、是は余りなる事に御座候旨、被申上候所、瑞春院様屹度御詞を被改、扨は常憲院様近年の御政道、御尤なる事と被存候や、すきと箇様の事共、其の方など被致候事に侯、此の度段々御改め被成候を、却て左様に被存供儀は、相聞不申儀と被仰候所、保山一言も不申、退出に候、云々とあるが如きも亦保山が心のほどを推測
るべきものなり)。
其の身文学望心し、又倭歌を好み、己が詠草に、かしこくも東山院の勅点を乞ひ奉り、労ら禅学を嗜みて、みづから著す所の書を、「護法常応録抄」と題して、院の御製序を賜はり、名山におさめ、又其の比堂上の中に識者と聞えし、正親町二位公通公の妹を迎へて妾となし、「松蔭日記」とて、わが身の栄華を筆記せしめ、駒込の別邸(六義園)に十二景を設け、これをも院より名を賜ほらんことを請ひ奉り、公卿の昧歌を集めて清翫となす。其の邸中の異樹珍石は、皆諸大名の贈る所にして、仮山泉水、悉く風致を極め、奢麗を尽したりと云。世には此の人の栄華を憎む心の甚しきより、くさぐさの訛謗を伝へて、淫褻僭乱のことありなど伝れども、其は皆信ずるに足らざる也。
*〇 七月二日、秋元但馬守喬知、大内造営奉行として上洛する。
*〇 七月六日、六日、寄合新井勘解由君美に、采邑五百石を賜ふ。君美此の時侍講の事に従ひしのみならず、凡そ天下の大事に参預して、建白対問する所多かりしかば、かく褒せられし也。其の職なく、只寄合の名を以て奥にもまかり、顧問に備はる、人以て特恩とす。