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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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誤伝素堂の背景 『葛飾正統系図』

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『葛飾正統系図』甲府市史 資料編 第4巻 近世3
  1. 俳文芸
『葛飾正統系図』嘉永三年(1850
 
〔書誌〕
 山梨県立図書館蔵甲州文庫。馬場錦江自筆稿本。
 正統とは素堂から錦江に至る九代の其日庵主のことであるが、各世主に属する主要俳人も記されている。本文末尾にある錦江の条に、嘉永庚戌の秋此系譜を作る」とあるので成稿の時を知り得る。素堂の伝記については、松平定能  の編集の『甲斐国志』(文化十年成)によるところが多い。
 
 葛飾正統系図
山口素堂芭蕉翁と酬和し、正風体の俳譜を創建して、葛飾隠士、其日庵素堂といふ。葛飾正風と号す。其日庵を以て葛飾正統の崇号として連綿たり。
 
葛飾正風大祖芭蕉翁友人
☆素堂
其日庵 初名来雪 号山口霊神 始信章斎 素仙堂 蓮池翁 今日庵 俗称山口官兵衛 幼名重五郎 又市右衛門 隠名素道 又素堂 姓源名倍章 字子晋 号葛飾隠士
    略 伝
葛飾正風之大祖其日庵素堂、姓ハ源、名ハ信章、字ハ子晋、通して官兵衛と言ひ、後素道と改め、又素堂といふ。其先世々甲州巨摩郡教来石村山口に居住するに依りて山口氏を号す。山口市右衛門某の長男なり。寛永十九年壬午五月五日生るるによって幼名重五郎と名づく。芭蕉庵桃青は正保元年甲申生れる。素堂長ずる事二歳也。父の家を受けて家名市右衛門と改、後甲府魚町に移り、酒
折の宮に仕へ頗る富るを以て時人山口殿と称せり。
其いとけなき時より四方に志ありてしばしば江府に往還し、林春斎の門に入りて経学をうけ、洛陽に遊歴して書を持明院に学び、和歌を清水谷家にうけ、連歌ハ北村季吟を師とし、松尾宗房(後芭蕉庵桃青)を同門とし、又宗因・信徳を友とし、俳諧を好ミ来雪と云、信章斎と号す。又今日庵宗丹が門人となり喫茶をよくし、終に今日庵三世の主となる。然して家産を弟に譲り市右衛門を称せしめ、みづから官兵衛とあらたむ。時に甲府殿の御代官桜井孫兵衛政能(九丗其日庵錦江外祖父桜井忠左衛門政直末流の先人なり)其の才能ある事を知り招きて僚属とす。致仕して後江戸東叡山下に寓居し名を素道と号し、人見竹洞を友とし、諸藩に講し、儒を以て専門とし、詩歌を事とし、茶・香・聯俳を楽しみ、又ハ琵琶を弾じ、琴をすがき、或ハ宝生流の謡曲をも好む此の時既に素仙堂の号あり。天和年中一旦世外の思ひを発し、家を葛飾の阿武に移し、芭蕉庵桃青の隣人とし、共に隠逸を楽しミて葛飾の隠士素堂といひ、其日庵を標号とし、桃青と志を同じくして正風体の俳諧を起立し、桃青を開祖とし、素堂ハ葛飾正風と号せり。此時桃青ハ庭上に一株の芭蕉を植て芭蕉庵と号し又芭蕉翁とよばれ、素堂ハ一泓池をうがちて白蓮を植て蓮他の翁と称せられ、『三日月の日記』にも蓑虫の贈答にも世に高尚と称せられて或は賓となり或ハ主となり、蕉翁ハ法界の蕉、素翁ハ禅庭の栢ともきこえしハ素翁の庭に栢ありし故なるべし。斯くて蕉翁四方に雲遊の間、素堂常に東武の教導をうけがひ其遊歴を心安からしめ、芭蕉死するの後、元禄八年乙酉素堂年五十四、甲陽に帰り父母の墓を拝するの時桜井政能に見ゆ。政能の曰く、此頃甲州の諸河砂石を漂流し其瀬年々に高く、河水溢れ流れ濁河の水殊に甚しく、山梨の中郡に濡滞して其禍を被る事十ケ村に及び、逢沢・西高橋の二村地卑しくして沼淵となり、雨ふる時ハ釜をつりて炊ぎ床をかさねて坐し、禾稼腐敗して収する事十分の二三に及ばず。政能是をうれふる事久し。足下我に助力して此水患を除んやといふ。素堂答へていふ。人ハ是天地の役物なり。可を見てすすむハ元より其分なり。ましてや父母の国なるをや。友人桃青も先に小石川の水道の為に力を尽せり。勉め玉へと言ひて遂に承諾す。政能よろこび江府に至り其事を公庁に達せんとするに、十村の民道におくり涕泣してやまず。政能眷(カエリミ)ていへらく「事ならざる時ハ汝等と永く訣れん。今より官兵衛が指揮をうけてそむく事なかれと。素堂是より復び双刀をさしはさみ又山口官兵衛と号す。幾程なく政能帰り来る。官兵衛また計算に精けれバ夙夜に役をつとめ、高橋より落合に至り堤をきづき、濁河を濬治し笛吹川の下流に注ぎ、明年に至りて悉く成就し、悪水忽ちに流れ通じて沼淵涸れ、稼穡蕃茂し民窮患を免がれ、先に他にうつれるもの皆旧居に復し祖考の墓をまつる。村民是に報ぜんが為に生祠を蓬沢村の南庄塚といふ地に建て、政能を桜井明神と称し、官兵衛を山口霊神と号し、其祭祀今に怠る事なしといえり。
しかして其の事終れば素堂速に葛飾の草庵に帰り宿志を述べて俳諧専門の名をなせり。ある時素堂武州川越におもむくの日、無人の郊外に好色の婦人招きてもとむるにまかせ、「我ほかに誰やきませと花芒」といふ句を書て与へけるに其婦人忽ちに見へず成りしが、川越城中其の社内にて其短冊を見たりといふ。素堂風雅の精研なる鬼神に通ずる事斯くのごとし。嘗て三日月日記をしるせる時、蕉翁と共に漢和の一格を定め、又松の奥・梅の奥の秘書を撰して門下に伝へ、又とくとくの句合に自評の判詞を加へ、宮川・御裳濯川の古き流れをくミ、又家集数巻を後に伝ふ。享保元年丙申八月十五日死す。谷中感応寺に葬る。年七十五、法名廣山院秋巌素堂居士。
 
《注記》●黒字は「甲斐国志」より引用
●赤字は馬場錦江の自作
《評》
 私はこの『葛飾正統系図』の素堂の項を読んだときに唖然とした。連綿として続く系統であれば、その祖の生き様は正しく伝えるべきであり、また引用する文書も大切であり、素堂身内の各種文書は引かれなかった。こうした文書は他にもそのまま引用されて、さらに誤伝が深まり、別人素堂の誕生となった。
 素堂は門人を取らずに俳諧を嗜み、芭蕉や素堂を慕う人は多く居た。又素堂は系図の云う様な赤字の号は名乗ってはいない。
☆素堂
其日庵 初名来雪 号山口霊神 始信章斎 素仙堂 蓮池翁 今日庵 俗称山口官兵衛 幼名重五郎 又市右衛門 隠名素道 又素堂 姓源名信章 字子晋 号葛飾隠士

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