文殊菩薩 狐と泥鰌(どじょう)北杜市武川町 口碑・伝説
『武川村誌』一部加筆
上三吹地内新屋敷の北方に、村人からお文殊原と呼ばれている流れ残りの丘がある。文殊菩薩は昔からこの地にあったが、明治三十一年九月の大水害の際流されて、今は長松山寓休院の境内にある文殊堂に祀られている。毎年陰暦七月二十四日の夜から二十五日に、かけて上下三吹で祭典を行っている。この菩薩は昔から生狐といわれている。村内に大火事や水害やその他の別状のある前には、必ず村内を異様な声を出して囁き、このことを事前に知らせると言い伝えられている。この文殊堂の前には石で作った大きな器が備えてある。この器には、泥を入れて常に数多くのどじょうが放ってある。これは菩薩信者が種々の祈願をかけてその霊験があったとき、お礼にどじょう(泥鰌)を、その人の
年齢の数だけ放つことになっているからである。疵はこの水をつけると必ず治るといわれている。
昔、この地の者が小狐の群れ遊ぶのを見て、一匹を捕えて付近の者と火炙りにして食べた。その後、その狐は文殊の狐であったということを知り、日ごろ薄気味悪く思っていた。たまたまその人が原へ堆肥をつけて運搬途中、道端の大きな松の木の根元で古狐にあった。狐はじっと彼の行き去るのを見ていた。彼は非常に薄気味悪く感じ仕事をすませて家へ帰った。するとわが家の床下に先刻の狐がうずくまっているではないか、彼はとても、驚いた。
その日の夕方彼の家で沖炉に、いっぱい火を焚いて餅掻きの用意をしていた。ところがこどもが俄かに大声で泣くので、あわてて駈けつけて見ると、体一面大火傷をしていたのであった。その大火傷の原因が、どうも不審だったので付近の易者に占ってもらうと、文殊の狐のいうのに、「わが子を火炙りにしたので、彼の子も火炙りにしてやろうと思い、毎日、良い機会を狙っていたが、きょうこそ漸く目的を達し、この上もない喜びである」といったという(北巨摩教育全編)。