富士塚の狐
北杜市武川町 口碑・伝説 『武川村誌』一部加筆
中山の南端、三吹字向山に一つの塚がある。形が小さく変形もしているが、村人は昔からこれを富士塚と呼んでいる。この塚は数百年前、現在の所有者小野忠則氏の先祖が上三吹区内の文珠の森から数匹の狐を移し小野家の祝神として祀った。以来同家では初春の午の日を卜し祭祀を行い霊験にあやかろうとした。伝えられるところによると、その霊験が、あらたかであった例が何度かあったという。
物が紛失したとき、みつけものがあるときこの狐に祈ると必ず三日以内に出てきたりしたものであった。家族に病人が出そうな時、天災の起きそうな時、きっとこの狐は上三吹の裏を流れている大堰の土手に来て、異様な叫び声を発して村人にそれを予告した。それゆえこの富士塚は小野家のみの祝神でなく村人全体の信仰を集めるにいたった。
次の事実談は村人に今なお語られて、そのたびに当時を想起させる凄惨な物語である。
明治三十一年の大洪水の時である。八月下旬から降り始めた雨は、日を経るに従って猛威を加え、いつやむともなく釜無川は濁流を川幅いっぱいに張らせて轟々と流れていた。九月に入って、きょうはもう五日となった。この日は雨脚は緩く、八ツ刻(今の午後二時)には日の光さえ見えて、村人はやっとホッとして愁眉を開いた。これで幾日も閉じこめられていた雨の日も終わるものと思った。ところがその安心も、ほんの束の間で、午後になると雨はますますはげしく降り続け、加えて強い風さえいてきた。村人は何とはなしに不安の念に駆られた。夜にはいって天帝は、その怒りをいっそう烈しくし乾草の鳩を押しつぶし物置を吹き飛ばすなど物凄いものだった。
人の不安はますます募った。風に対する不安は何か落着きのない、いらいらしたものだった。それに対し水に対する不安には何か心強いものがあった。なぜならば、村の上手には、まだ仕上がって間もない何百間もの大堤防があるのだ。どんな大水がこようともあの堂々たる堤防がくずれることは、あるまいと彼らは固く信じていたからである。言い知れぬ安を抱きながらも村人たちは皆床についた。外は真の闇で不気味に雨と風とが晦曝する音だけが渦巻いていた。その昔を耳にしながら皆眠りに落ちていった。
九ツ(今の真夜中)近くであろうか?小野家に縁のある小野某老女は、年寄の常で寝つかれないまま床の中で煙草を吸っていた。嵐の音を耳にしつつ煙草を吸っていると老人の耳に、かすかながらも異様な音が聞こえた。風のために、その昔は聞こえたり打ち消されもした。それは何かきしる音のようにも聞こえた。なおも耳を澄ますと、また前よりも一段と強く何かを訴えるように長く余韻を残して聞こえるではないか。
彼女はパッと起きた。若しかすると………と思いつつ外へ出た。また一声「………」 「富士塚さんの声だ」 「そうだ堤防がきれるのだ」
こう直感した彼女は家の中へ駈けこんで息子の太一を起こして堤防を見に急がせた。太一が堤防に着いた時はすでに遅かった。さしもの頑丈な堤防も一角を破られて水は、ずんずん増しつつ村へ向かっていた。太一は、ころげるように引き返すや、半鐘をめった打ちに叩いた。
この鐘の乱打に掛、たちまちのうちに混乱に陥った。泣く者、叫ぶ者、わめく者、しかも嵐はますます咆え狂う。村人が安全の地へのがれた直後、村は満々たる濁流に洗われていた。
太一が鐘をならしてから、ものの三〇分とたっていなかった。
村人たちは、太一の功を口々に、讃えると共に、富士塚さんの霊験に、いまさらながら驚いて感謝の念をいよいよ高めたのであった(北巨摩教育全編)。