徳川家康 折井九郎次郎宛行状
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
天正十一年 癸未(一五八三)四月廿六日
徳川家康が武川衆折井九郎次郎に与えた宛行状
甲斐国有野郷内弐拾参貫文
河東内東光寺分拾九貫五百八十文
白須内大輪助三分九百文
甘利上条内散使免弐貫八百文
折井郷寺社領壱貫弐百七十文余
武田宮地内五味分弐貫四百四十文余等之事
右、所宛行 不可有相違之状 如件
天正十一年 四月二六日
折井九郎次郎殿
(埼玉県寄居町 田中晴二家所蔵文書)
<解説>
折井九郎次郎は、武川衆の領袖折井次昌の嫡男で、名を次忠といった。永禄五年(一五六二)の生まれで、武田家没落のときは二一歳であった。この年七月二四日、中道往還を経て甲斐に入った徳川家康を柏尾坂に迎え、主従の礼をとった。以来、父次昌をたすけて対北条氏直戦において奮戦し、翌二年四月二六日に本書の所領を宛行われたのである。
すなわち
有野郷内で二三貫文、
中郡筋河東郷(昭和町)内で一九貫五八〇文、
武川筋白須郷内で大輪助三分九〇〇文、
甘利上条で二貫八〇〇文、
折居郷で一貫二七〇文余、
武田宮地郷内で二貫四四〇文余、
・計五〇貫二九〇文余の所領を恩賞されたのであった。
この所領は同一七年一一月二一日に石高に換算して二〇〇石に改められた。翌一八年八月四日、父次昌が小田原攻囲の陣中で病没したので、父の遺跡を継ぎ武蔵鉢形領に移って、采地八〇〇石を賜わり、父に代り米倉種継と共に武川衆の支配を命ぜられた。
この文書に見える白須内大輪助三分、甘利上条内散使免、武田宮地内五味分、など、興味深い所領の地名、支配形態は注目すべきであろう。