徳川家康 折井次昌所領宛行状
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
天正十三年 乙酉(一五八五)五月廿七日
徳川家康が武川衆折井次昌に与えた所領宛行状
「本領改替 甲州折居南分参拾五貫文・折居内五貫文・六科内網蔵分五貫五百文・同所山下分拾貫文・亀沢内渡辺分六貫九百文・甘利内土屋出雲分拾六貫文・同所寺分廿七貫文・同所竹内ひかへ前廿五貫文(山屋敷・河原共)・御前分弐拾貫文・卯時免拾貫文・相良分六貫文・新奥内弐貫文・甘利内北方分夫丸壱人 并山屋敷等之事
右、所宛行之所領、最前於遠州兼約候之条、不可有相違、者守此旨、
可抽戦忠之状 如件
天正十三年五月廿七日 家康(花押) 折居市左衛門尉殿
(埼玉県寄居町 田中晴二家所蔵文書)
<読み下し>
(上略)
右、宛行うところの所領は、最前、遠州において兼約し候の条、相違有るべからず、ていれば此の旨を守り、戦忠を抽んずべきの条、件の如し。
<解説>
折井市左衛門尉次昌は米倉主計忠継とともに、徳川家康に属した武川衆の領袖として抜群の軍功をあらわし、天正十年七月十五日に感状を与えられて以来、同年八月一し、一二月七日には新恩一四三年三月、小牧の陣が起こると、真田昌幸の押さえとして信州に赴き、ついで尾張に参陣して長久手の戦いに大いに戦功を励み、一宮・楽田に転戦した。この頃のことであろう、遠州浜松城において次昌は、戦功の賞として本領に替えるに肥沃な新領を約したのであるが、この度の本領改替宛行状により家康の約束が果たされたのである。