徳川家康 甲斐武川次衆定置注文
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
徳川家康の甲斐武川次衆定置注文(朱印・印文福徳)
「○武川次衆事
曽雌藤助 米蔵加左衛門尉 入戸野又兵衛 秋山但馬守 秋山内匠助
戸島藤七郎 小沢善大夫 小澤甚五兵衛 小澤縫右衛門尉 小尾与左衛門尉
金丸善右衛門 金丸新三 伊藤信吾 海瀬覚兵衛 樋口左太夫
若尾杢左衛門尉 山本内蔵助 石原善九郎 名取刑部右衛門尉 志村惣兵衛
塩屋作右衛門尉 山主民部丞 青木勘次郎
右、各、武川衆所定置也 仍如件
天正十年 十二月十一日 」
(埼玉県寄居町田中晴二家所蔵文書)
<解説>
武川衆は武田家臣団の中で特色のある武士団として注目され、永禄一〇年八月七日信州下之郷明神々前で六河衆の名で連署起請文を捧げた。
天正壬午の年、武田家は没落したが、武川衆は殆んど無傷であった。しかも徳川家康の手厚い保護により、織田信長の迫害を逃れ、信長横死(本能寺の変)のちは、武川衆の領袖折井次昌・米倉忠継をはじめ、大方の武川衆が家康に抱えられるに至った。彼らは妻子を進んで人質として送り、献身的に尽くしたので、家康は米蔵・折井両人に次の感状を与えた。
「其の郡において別して走り廻らるるの由。祝着に候。各々相談あり弥ミ忠信を抽んでらるべく候」
七月五日 家康(花押)
米倉主計助殿 折井市左衛門尉殿
米倉・折井・青木・柳沢・山高・知見寺・山寺・馬場・横手・曲淵などという武川衆の錚錚(そうそう)たる士に対する一紙の感状であったのである。ところがこれだけでは満足できない武川衆の諸士があった。家康に対する忠誠と功績において遜色はないのであるが、なんとなく次の階にランクされてしまったという立場の人々である。彼らの不満を和らげる目的からであろう、「武川次衆」という階を制定発表したのである。その数二六人、武田家以来の名門で、家康への忠信も人後に落ちない。武川次衆注文によって武川衆の士気はいちだんと高まったと思われる。