武川筋黒沢山大堺之事
解説(武川村誌 佐藤八郎氏著)
天正九年辛巳(一五八一)八月廿日
武田勝痛が武川筋黒沢山の境界を裁定する
<読み下し>
黒沢山大堺の事
一 南は判行の道より八町 庄司 みつなぎより北は黒沢分として 其原下道より石うとろ(空)わたは 石塔 烏帽子石 大武川切りに 南は黒沢分なり
<解説>
武田勝頼の短い治世における民政史料として注目すべき文書である。この黒沢山というのは、当時の農民たちに肥料源として不可欠の含窒素有機質肥料、すなわち緑肥、刈敷と呼ばれた山野の草木の若枝・若芽の供給源であったとみられるから、黒沢山の地元黒沢村にとってはその境界裁定の当否は、地元黒沢村民にとって死活の問題であった。この裁定書の内容が妥当なものであったことは、これに対して村民らから異議の申し立てのなかったことから推定できる。黒沢村が、黒沢山をはじめ鳳凰山麓における入会地に特殊の権益を有していたことは、後年、逸見筋の村々から入山料を徹した事実(黒沢一木正喬家文書)によって知られるが、その起源がこの文書に関係があるかも知れない。
次にこの文書に押捺された獅子朱印の性格について解説してみょう。
獅子朱印は武田勝頼の公印である。しかし、勝頼がその治世中に使用した印判は、獅子朱印だけでなく、父信玄の使用したものをそのまま襲用している。竜朱印、晴信方形印などはその著しい例である。獅子朱印の使用について、勝転が行政関係文書に使用したことを定めた史料がある。それは竜王町保坂達家所蔵の水防資材徴用令書で、
「自今己後、以此御印判、竹木藁縄等之御用、可被仰付着也、仇如
件、乙亥十二月廿三日 跡部美作守 市川備後守 奉之 河原宿之
郷」
というものである。同一内容のものが八代郡寺尾郷・山梨郡落合郷に現存している。また信州高遠領非持山の池上庄市家所蔵文書にもある。