芭蕉死す
元禄7年 甲戌 1694 53才
世相
○側用人柳沢保明は、しだいに加増され正月に七万二千三十石で武蔵川越城主となり、
○十一月二十五日の評定所の式日に出席し、十二月には老中に准ぜられ、牧野成貞に代って側用人として実権を掌握することになった。
○四月、伊賀上野大火、一千余戸焼失する。
◆生類憐みの令続行
四月、場末で犬を傷つけものを逮捕し町奉行に訴えさせる。捨犬禁止。
七月、傷ついた犬は毛色・傷の様子を記録した犬医師のところで治療させること。
十月、幕臣等に令の精神を示達する。
○出版禁止令。歌舞伎役者・遊浪の少年・前髪もの・女踊子などが女性の家に出入りすることを再禁止する。
俳壇
○二月、芭蕉は許六宛書簡で「軽み」を説き、野坡・沾圃・桃隣の新風を評価する。
○四月素龍は「奥の細道」を清書し、跋を記す。素龍は芭蕉の依頼で、『炭俵』の序を記す。三千風が隅田川畔に仮寓する。
芭蕉の晩年の動向については後述する。
依水
三月七日付、曾良宛書簡
来ル十八日の翁も参られ候筈に御座候。
一席催し候間、素堂子御誘ひなされ候
ひて御出で下され候様に待ち奉り候。
芭蕉
五月十六日付、曾良宛書簡
『芭蕉文集』(荻野清氏著)
尚々宗波老へ 願置候素堂書物早々かへされ候と相申よし申上可被下候。
尚々宗波老へ 預置候素堂書物早々かへされ候様ニ頼申よし御申可被下候。
『甲斐俳壇と芭蕉の研究』(池原錬昌氏著)
素堂
九月刊、戸田茂睡編『不求梨本隠家勧進百首』入集。
すむ庵を世の人のかくれ家といふきゝて
人しれぬ身にますれはをのつから もとむともなきかくれかにして 法し 茂睡
いりかある言葉の花の世にもれは身のかくれかのかひやなからむ 信章 素堂
隠家もとなりありとは言の葉の道をわけたる人にしられて 幽山 高野
けふはまつよろつの民の言の葉に治る御代の春をしるかな 清水 宗川
貝ひろふ蜑の子あまた数見えて霞む海邊の春の朝なき 原 安適
茂睡
寛永六年(1620)生、~宝永三年(1706)歿。年七十八才。
戸田氏。通称茂右衛門、後に茂睡。渡辺監物忠(三河国戸田家から旗本渡辺山城守茂の養子となる)の子として駿府城内に
生まれる。父は主君徳川忠長の改易の事に坐して下野国黒羽に蟄居、茂睡も二十才まで同地で過ごした。
その後江戸の伯父戸田政次の養子となり、明暦元年~寛文十二年(一説には天和三年~宝永元年)の間、本多侯に仕官した。
しかし本多侯の国政改革に際して浪人となり、晩年は遁世して浅草金龍山などに住んだ。祖父・父とも和歌連歌を嗜む名門で、環境に恵まれた。実作より歌学面に見るべき点があり、古今伝授や制詞を重んじる因襲的の堂上歌学に痛烈な批判を加えた。
著作書
『梨本集』『百人一首雑談』『僻言調』『鳥の迹』『紫の一本』『梨本書』『御当代記』など。
素堂
閏五月、『炭俵』発句二入集。野波・孤屋・利牛編。
むめがゝにのつと日の出る山路かな 芭蕉
蓬莱に聞ばや伊勢の初便 同
みちのくのけふ關越ん筥の海老 杉風
春や祝ふ丹波の鹿も歸とて 去来
喰つみや木曾のにほひの檜物 岱水
猶いきれ門徒坊主の水祝ひ 沾圃
東雲やまいら戸はづすかざり松 濁子
目下にも中の詞や年の時宜 孤屋
長松が親の名で来る御慶哉 野坡
夏の部発句
髭宗祇池に蓮ある心かな 素堂
三日月の隠にてすゞむ哀かな 同
『炭俵』
芭蕉が江戸深川の草庵で冬の夜に、肖柏のくぬぎ炭の歌を誦して「炭だはらといへるは誹也けり」に基づく。
野波
寛文二年(1662)生、~元文五年(1740)歿。年七十九才。
越前国福井の生まれ。越後屋両替店の手代(番頭)、元禄以後は其角の指導を受け、俳諧師として生涯を過ごした。元禄六年芭蕉に師事して教えを受けた。
この頃の垣の結ひ目や初しぐれ (『続猿蓑』)
孤屋
生没年不詳。貞享三年(1686)~元禄十五年(1702)にかけて活動。通称小泉小兵衛。江戸駿河町越後屋の手代(番頭か)
こほろぎや箸で追やる膳の上 (『すみだはら』)
利牛
生没年不詳。元禄六年(1693)~宝永五年(1708)前後に活動。
江戸駿河町越後屋の手代(番頭か)
子は裸父はててれで早苗舟 (『すみだはら』)
素堂
『蘆分舟』入集。不角編。素翁序(素堂)
五月あめ晴過る比蘆分舟をさしよせて、江の扉たゝく人有。この舟や難波の春を始めて玉江のあしの夏狩りものせて是をおもしとせず。尚しほれ戸のからびたるも一ふしあるはそれすてめや。
しばしかたらひて手をわかつとき
鳩ノ巣や帰る目地茂る足の暇 素堂
春もはや山吹しろく苣苦し 々
『蘆分舟』
四季別の冊をわけ、連句・発句を配し、冬の巻末に自己の四季句を披露した撰集。
不角
寛文二年(1662)生、~宝暦三年(1753)歿。年九十二才。
立羽氏。江戸の書肆。十三才で不卜に入門。天和三年(1683)刊の『誹諧題林一句』に入集以後活躍し、元禄三年より
「前句付」の月次興行を開始、
宝永三年(1706)には高点集を刊行して確固たる地位を築き、享保十五年(1730)には法印となる。
空せみは元の裸に戻りけり (『うつ蝉』)
素堂
八月刊、『句兄弟』発句一入集。其角編。
洛陽の花終りける頃
亦これより若葉一見成にけり 素堂
『句兄弟』
沾徳跋。上巻は発句合。中巻は肅山との両吟歌仙。下巻は紀行句と諸家発句を収める。
其角
別掲。
素堂
『名月集』発句一入集。心桂編。
ムすぎぬ心や月の十三夜 素堂 (ム -うま)
『名月集』
巻頭に心桂の二夜の月の序文と浪化の発句を一対の句文のように置き、次に名月・後の月の発句二十三句と心桂の月の三物を配す。云々
素堂
芳里袋』発句一入集。友鴎編。素堂、序を草す。
朝がほ盛久し
朝がほハ去年の垣に盛哉 素堂
素堂……曾良宛書簡(妻の死)
御無事ニ御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀妻ニ離申候而、当月( )ハ忌中ニ而引籠罷候。
一、
桃青大阪ニて死去の事、定而御聞可被成候、御同然ニ残念ニ存事ニ御座候、嵐雪・桃隣二十五日ニ上り申され候、尤ニ奉存候。
一、
元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。
内々ノみのむしも忌明候ハゞ其日相したゝめ可申候、其内も人の命ははかりがたく候へ共、云々
一、
例ノ年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、明年又たそや
曾良賀丈 素 堂
素堂
妻の死のため芭蕉の葬儀(大阪)へ行けず。
《註》
前掲の素堂、曾良宛書簡により、素堂の妻の死が確認できる。
これまでの素堂伝記諸本による、素堂の母の死(元禄三年説/荻野清氏)や素堂は妻を娶らずなどの伝記は史実ではない。
又、素堂の生家は酒造業であったとの伝記も根拠のない説で、後世に於ての創作である。この書簡は素堂の数少ない書簡である。全文を掲げた紹介書は未である。
《註》
参考資料 『連歌俳句研究』森川昭氏紹介・『俳諧ノ-ト』星野麦久人氏著・『芭蕉の手紙』村松友次氏著
芭蕉、十月十二日大阪にて歿。
〔芭蕉の死〕
『芭蕉年譜大成』今栄造氏著。(掲載書名は略)
十月十一日
この朝から食を廃し、不浄を清め、香を焚いて安臥する。夕刻、上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞いて馳せ参じる。夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・
木節・乙州らに句あり。この内丈草句、「うづくまる薬の下の寒さ哉」のみを「丈草出来たり」と賞す。
十月十二日
申の刻(午後四時頃)歿す。
遺言により、遺骸を湖南の義仲寺に収めるため、夜、淀川の河舟に乗せて伏見まで上る。この折の付添人は、去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛の十人。
膳所の臥高・昌房・探志ら三名、行き違い大阪に下る。
十月十三日
朝、伏見を発し、昼過ぎ湖南の義仲寺に遺骸を運び入れる。支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は、臥高ら三名の戻りを待って明日に延期される。
十月十四日
夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。導師、同寺直愚上人。門人焼香者八十人。会葬者三百余人。
十月十六日
伊賀の土芳・卓袋両人、十三日に師危篤の報を得て大阪に急行。廻り道してこの日朝、義仲寺に至る。両人、師の行脚中使用の遺品を改めて伊賀の兄半左衛門のもとに送る。
杖・笠・頭陀は義仲寺奉納と決まる。
十月二十五日
この日、義仲寺境内に無縫塔が建立される。高さ二尺余の青黒の自然石の表に「芭蕉翁」背に年月日を記す。
素堂
『枯尾花』発句一入集。其角編。「芭蕉翁終焉記」
十月十八日、於義仲寺、追善の誹諧
なきながら笠に隠すや枯尾花 晋子(其角)
温石さめて皆氷る聲 支考 温石=をんじゃく
行灯の外よりしらむ海山に 丈艸
やとはぬ馬士の縁に来て居る 惟然
つみ捨し市の古木の長短 木節
洗ふたやうな夕立の顔 李由
森の名はほのめかしたる月の影 之道
野かげの茶の湯鶉待也 去来
水の霧田中の舟をすべり行 曲翠
旅から旅へ片便宜して 正秀
暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ 臥高
風のくするを惣くがのむ 泥足
こがすなと齋の豆腐を世話をする 乙州
木戸迄人を添るあやつり 芝柏 (以下略)
十月廿三日追善
亦たそやあゝ此道の木葉掻 湖春
一羽さびしき霜の朝鳥 素龍
碇網綰なる月に浪ゆりて 露沾 綰 -わが
野分の音のかはる兀山 萍水 兀山-はげやま
秋中に殘らずつけし蔵の壁 桃隣
青苧の長を引上にけり 岱水 青苧-あをう
内かたは物やはらかな人づかひ 野坡
ほろく雨の末は四五町 孤屋
その形に紙で巻たる百合の花 利牛
竈の火けして庵たて寄 杉風 竈 -くど
雲水の身はいづちを死所 素堂
帆をもつ舟は疊也けり 筆
素堂
深草のおきな、宗祇居士を讃していはずや。
友風月 家 旅泊
芭蕉翁のおもむきに似たり
旅の旅つゐに宗祇の時雨哉 素堂
義仲寺へ送る悼
氷るらん足もぬらさで渡川 法眼 季吟
告て来て死顔ゆかし冬の山 露沾
凩の聲に檜原もむせびけり 素龍
素龍
生年不詳、~正徳六年(1716)歿、年五十四才とも六十一才とも。
通称義左衛門。もと阿波国徳島藩士。元禄五年(1692)に芭蕉と相識り、『奥のほそ道』を清書し跋文を寄せた。本領は歌学で幕府歌学方季吟に接近し、元禄十三年(1700)頃、 柳沢吉保の禄を得て、将軍綱吉の前で『源氏物語』を購読する栄に浴した。吉保の息子吉里にも仕え、柳沢家の和歌指南として謹仕し没した。
岱水
生没年不詳。貞享~宝永頃。貞享四年(1687)の『伊賀餞別』に苔翠の号で入集以来芭蕉庵の側に住居する。著に『木曾の谷』がある。
湖春
慶安元年(1648)生、~元禄十年(1697)歿。年五十才。
季吟の長男。幼時から父の俳席に列して腕を磨き寛文七年(1667)宗匠として独立。『続山井』を編んだ。以後父季吟の実務担当者として活躍し、後京都で活躍。元禄二年(1689)に父とともに幕府に歌方として招かれる。
〔素堂余話〕
素堂像