獣医人妻の股ぐらを診察するの巻
「艶説 生きものの記録」泉二三彦氏著 昭和31年刊
ストリップショウなどというはだか踊りが一世を風靡して以来、女性の裸体美、特に乳房と臀部の美が、公然と鑑賞できるようになったことは御同慶のいたりです。画壇の亘匠ルノア-ルは、「女に乳房と臀部とがなかったならば、自分は決して裸を画かなかったであろう」と、のたまわせられました.ルノア-ル先生の言をまつまでもなく、女性美の焦点のひとつはたしかにこの地帯にあるといってよいでしよう。
盛上っている乳房が、あたかも生きもののようにブルンブルンと動く情景は、男性の血を頭にのぼらせるに十分です。乳房の大きいことを恥じて、無理に乳押えをしたりした古い習慣は愚の骨頂でした。和服で帯を強く乳房の上にしめる様式もすみやかに改良したいものです。従来、日本人はあまりに乳房を虐待しすぎていたと思います。歌麿えがくところの古代の美人画にも、オッパイの美はあまり示されていないのが残念です。
東郷青児さんあたりが、オッパイの美を強調されて以来、オッパイの商品価値がいちじるしく高められたことは喜ばしい限りです。東郷青児さんがオッパイ小僧とかいう、巨大な乳房美人を世に紹介して以来、オッパイ二世、三世が相ついであらわれ、今日ではもう百世ぐらいまであらわれているかも知れません。
小屋がけのストリップショウなどでキこのオッパイ何世かをでんと正面に鎮座させてその拝観料を巻き上げているのがあります。乳房が美の対象として、日本のサムライ共に認識されだしたのは、裸体画、ヌード写真の影響もさることながら、ストリップショウの影響が大であるといわざるをえません。
パラリと脱ぎすてた下着の下に忽然とあらわれて、ブルンブルンとゆらぐオッパイの躍動を見るとき、男性たるものはそこに偉大なるエロ、否、美の再発見をしないではいられません。
従来、日本人には乳房を生殖器の一部だとする思想はなく、単なる授乳用具だとする悲しい思想があって、電車の中などでも、衆人環視のなかで平気でデンとオッパイを引っぱり出して、子供に乳を飲ませていました。外人はこれを見てキモをつぶしたそうですが、今日でもこのような風景は別に珍らしくはありません。元来、乳房はその性能の上からみれば、たしかに生殖器と深いつながりのある器官ということができますから、乳房は羞恥であるべき性質のものでしよう。
お隣りの中国では、乳房はこれを決して人に見せないのを礼儀として、乳房をできるだけ小さく見せるのを美装術の心得とさえしていました。ですから中国婦人は決してわが大和撫子のように、人前で胸をはだけるような失礼なまねはしないようです。
生物のなかで、もっとも高等な部類に属する哺乳類のみが、この乳房という器官をもっています。哺乳類の子供は、人間でも同じことですが、乳房の中央部にある乳頭から出て乳を吸って成長します。乳頭払は十二~十五の小さな孔が開いていて、ここから乳がにじみ出ます。乳房の皮下にはたくさんの乳腺という管があって、これがこの孔にあつまっているわけです。
さて女の子は色気づいてくると、急に乳房が発達して、やがて椀をふせたような半球形の可愛らしい乳房になります。花もつぼみの頃のこの可愛らしいお碗型の乳房は、次第に皮下脂肪の沈積によって肥大して、体の運動につれてプルンソブルンと波うつように発達してくるわけです。
処女の乳頭は、愛のボタンとよばれ、バラ色に色づいていて、まさに花のつぼみのように美しく、生き生きとしています。
これにくらべると、カビの生えた古女房の乳房などは兎の糞のようで風情がありませんし、オバアチヤンのそれは乾ブドウのようにひからびてしまって全くいただけません。乳房の大きさは、決して、一定不変のものではなく、大きくなったり、小さくなったりするようです。特に妊娠の末期には極大に達することはいうだけヤボというものでしよう。処女の乳房は、左右同じ大きさですが、男を知った女性の乳房は百人のうち七十七人までが、左にくらべて右の方が大きいといわれています。
この原因は、女は性生活がはじまると右を下にして寝る習性があるからだともいわれています。右側を下にして寝るとなぜ右乳房が大きくなるかといいと、脂肪が下側のほうにたまるからだとも思えます。
古代インドの性典「アナンガ・ランガ」という本には、「二つの乳房の大きさや、位置のちがう女を妻にめとるな」ということが書かれています。左右不同の乳房をもつ女は処女ではないという警告なのでしょう。これをきいて、ギョギョッとなる女性もあるかも知れませんが、心配だったら当分左側を下にしていればばよいでしよう。乳房は、元来、哺乳のための器官ですが、男性の愛撫の対象となるところから「愛のポタン」とか、「愛のクッション」とかいわれるようになったものでしよう。つまり性行為における愛の玩具ともいうべきものでしよう。愛のボタンとよばれる乳房はまさに、男性のペニスに共通する性質をもっています。興奮すると充血して勃起します。愛撫をうけたボタンは、水を吸った小豆のように膨脹することはサムライどもは先刻承知しております。
乳房は人間では左右一対ありますが、多産の哺乳顆では、乳房の数も五、六対もあるのがふつうです。この乳房の数は、大体その動物が産む子の数と一致するようになっています。豚などでは、時に乳房の数より余計に子を産むことがありますが、乳房取り競争にアプレた弱気な子は栄養失調で死んでしまいます。
人間は二つ乳房がありますから、双児までは安心して産めるわけです。三つ児以上は計算を誤ったものといえます。しかし、人でもまれに二対以上の副乳というものをもっている例があります。副乳のある女性は百人に四人ぐらいの割に見られるといいます。人間にもこのようにたくさんの乳房がある例は、人間も大むかしは犬や豚のように多産であったことがある歴史を物語っているものでしよう。乳房は女性の象徴ですが、ふしぎなことには男性の肉体にもれっきとした乳房がついているという事実です。この事実から、大むかしは男性も哺乳の役目を受けもっていたのだとも証明されています。アイスランドの言い伝えに、ソールギノルという男があって、婁が分娩後死亡したので、子供をそだてるのに困って、自分の乳房を吸わせているうちに、本当に乳が出るようになったという話があります。これに類する話は日本にも珍らしくありません。
医学的にも、男の乳房から乳が分泌されたという現象は確認されています。面白いのは、男に女性ホルモンを注射すると、乳房が発達してくることです。
こんなはなしがあります。ある女性ホルモン製造工場、で働いていた男が、ある時、乳頭の痛みを訴えたので、医者がしらべてみると、乳弱から乳がしみだすようになっていたということです。これは作業中に女性ホルモンが皮膚から吸収されて、乳腺の発達をうながしたものと思われます。乳房の肉体実は、人間特有のものであって、他の動物の乳房にはわれわれは肉体美を発見することはまずありません。
牛や山羊のピンク色の乳房はちょっとばかり美しく見えますが、あれは製乳機械としての横機械美ともいうべきものでしよう。
哺乳顆のなかで一風変っているのは、カモノハシというオーストラリア産の動物で、乳房というものはなく、からだの表面から乳がにじみ出てきます。哺乳のときは母親は仰向けにひっくり返ります。すると、予は母親のお腹中をペロロとなめてしみだす乳を吸うのです。それにつけても、カモノハシの雄どもは、オッパイというものの魅力を知らないあわれな奴等です。
さて、あるところに、人の人妻がいました。あるとき、乳房をはらして痛くてたまりませんでしたので、近所の医者のもとにかけつけました。ところがあいにく留守でしたので困惑しましたが、ふと近くに獣医さんがいることを想い出して、「獣医さんでも、医者は医者にちがいない」と考えて、獣医さんの門を叩きました。「先生、御迷惑でしようが、乳房がいたくてたまりません。ひとつ、みては頂けないでしょうか?」「いいとも、いいとも、たやすい御用だ。さあこの寝台の上に構になりなさい」というわけで、女は寝台の上に横になりました。すると、獣医は彼女の胸元には目もくれず、ハッと彼女の裾をまくって、下腹部へいなり手をつっこんだので、女はたまげて、ガバッとはね起き、「あれっ先生、何をなさいます!」と、鋭くきめつけますと、獣医先生は、頭をかきかき、「これは失礼しました。いつも牛の乳房を吸いつけておりますもので、あなたのもテッキリとここあるものた感ちがいいたしました!」と、あやまったそうです。
「艶説 生きものの記録」泉二三彦氏著 昭和31年刊
ストリップショウなどというはだか踊りが一世を風靡して以来、女性の裸体美、特に乳房と臀部の美が、公然と鑑賞できるようになったことは御同慶のいたりです。画壇の亘匠ルノア-ルは、「女に乳房と臀部とがなかったならば、自分は決して裸を画かなかったであろう」と、のたまわせられました.ルノア-ル先生の言をまつまでもなく、女性美の焦点のひとつはたしかにこの地帯にあるといってよいでしよう。
盛上っている乳房が、あたかも生きもののようにブルンブルンと動く情景は、男性の血を頭にのぼらせるに十分です。乳房の大きいことを恥じて、無理に乳押えをしたりした古い習慣は愚の骨頂でした。和服で帯を強く乳房の上にしめる様式もすみやかに改良したいものです。従来、日本人はあまりに乳房を虐待しすぎていたと思います。歌麿えがくところの古代の美人画にも、オッパイの美はあまり示されていないのが残念です。
東郷青児さんあたりが、オッパイの美を強調されて以来、オッパイの商品価値がいちじるしく高められたことは喜ばしい限りです。東郷青児さんがオッパイ小僧とかいう、巨大な乳房美人を世に紹介して以来、オッパイ二世、三世が相ついであらわれ、今日ではもう百世ぐらいまであらわれているかも知れません。
小屋がけのストリップショウなどでキこのオッパイ何世かをでんと正面に鎮座させてその拝観料を巻き上げているのがあります。乳房が美の対象として、日本のサムライ共に認識されだしたのは、裸体画、ヌード写真の影響もさることながら、ストリップショウの影響が大であるといわざるをえません。
パラリと脱ぎすてた下着の下に忽然とあらわれて、ブルンブルンとゆらぐオッパイの躍動を見るとき、男性たるものはそこに偉大なるエロ、否、美の再発見をしないではいられません。
従来、日本人には乳房を生殖器の一部だとする思想はなく、単なる授乳用具だとする悲しい思想があって、電車の中などでも、衆人環視のなかで平気でデンとオッパイを引っぱり出して、子供に乳を飲ませていました。外人はこれを見てキモをつぶしたそうですが、今日でもこのような風景は別に珍らしくはありません。元来、乳房はその性能の上からみれば、たしかに生殖器と深いつながりのある器官ということができますから、乳房は羞恥であるべき性質のものでしよう。
お隣りの中国では、乳房はこれを決して人に見せないのを礼儀として、乳房をできるだけ小さく見せるのを美装術の心得とさえしていました。ですから中国婦人は決してわが大和撫子のように、人前で胸をはだけるような失礼なまねはしないようです。
生物のなかで、もっとも高等な部類に属する哺乳類のみが、この乳房という器官をもっています。哺乳類の子供は、人間でも同じことですが、乳房の中央部にある乳頭から出て乳を吸って成長します。乳頭払は十二~十五の小さな孔が開いていて、ここから乳がにじみ出ます。乳房の皮下にはたくさんの乳腺という管があって、これがこの孔にあつまっているわけです。
さて女の子は色気づいてくると、急に乳房が発達して、やがて椀をふせたような半球形の可愛らしい乳房になります。花もつぼみの頃のこの可愛らしいお碗型の乳房は、次第に皮下脂肪の沈積によって肥大して、体の運動につれてプルンソブルンと波うつように発達してくるわけです。
処女の乳頭は、愛のボタンとよばれ、バラ色に色づいていて、まさに花のつぼみのように美しく、生き生きとしています。
これにくらべると、カビの生えた古女房の乳房などは兎の糞のようで風情がありませんし、オバアチヤンのそれは乾ブドウのようにひからびてしまって全くいただけません。乳房の大きさは、決して、一定不変のものではなく、大きくなったり、小さくなったりするようです。特に妊娠の末期には極大に達することはいうだけヤボというものでしよう。処女の乳房は、左右同じ大きさですが、男を知った女性の乳房は百人のうち七十七人までが、左にくらべて右の方が大きいといわれています。
この原因は、女は性生活がはじまると右を下にして寝る習性があるからだともいわれています。右側を下にして寝るとなぜ右乳房が大きくなるかといいと、脂肪が下側のほうにたまるからだとも思えます。
古代インドの性典「アナンガ・ランガ」という本には、「二つの乳房の大きさや、位置のちがう女を妻にめとるな」ということが書かれています。左右不同の乳房をもつ女は処女ではないという警告なのでしょう。これをきいて、ギョギョッとなる女性もあるかも知れませんが、心配だったら当分左側を下にしていればばよいでしよう。乳房は、元来、哺乳のための器官ですが、男性の愛撫の対象となるところから「愛のポタン」とか、「愛のクッション」とかいわれるようになったものでしよう。つまり性行為における愛の玩具ともいうべきものでしよう。愛のボタンとよばれる乳房はまさに、男性のペニスに共通する性質をもっています。興奮すると充血して勃起します。愛撫をうけたボタンは、水を吸った小豆のように膨脹することはサムライどもは先刻承知しております。
乳房は人間では左右一対ありますが、多産の哺乳顆では、乳房の数も五、六対もあるのがふつうです。この乳房の数は、大体その動物が産む子の数と一致するようになっています。豚などでは、時に乳房の数より余計に子を産むことがありますが、乳房取り競争にアプレた弱気な子は栄養失調で死んでしまいます。
人間は二つ乳房がありますから、双児までは安心して産めるわけです。三つ児以上は計算を誤ったものといえます。しかし、人でもまれに二対以上の副乳というものをもっている例があります。副乳のある女性は百人に四人ぐらいの割に見られるといいます。人間にもこのようにたくさんの乳房がある例は、人間も大むかしは犬や豚のように多産であったことがある歴史を物語っているものでしよう。乳房は女性の象徴ですが、ふしぎなことには男性の肉体にもれっきとした乳房がついているという事実です。この事実から、大むかしは男性も哺乳の役目を受けもっていたのだとも証明されています。アイスランドの言い伝えに、ソールギノルという男があって、婁が分娩後死亡したので、子供をそだてるのに困って、自分の乳房を吸わせているうちに、本当に乳が出るようになったという話があります。これに類する話は日本にも珍らしくありません。
医学的にも、男の乳房から乳が分泌されたという現象は確認されています。面白いのは、男に女性ホルモンを注射すると、乳房が発達してくることです。
こんなはなしがあります。ある女性ホルモン製造工場、で働いていた男が、ある時、乳頭の痛みを訴えたので、医者がしらべてみると、乳弱から乳がしみだすようになっていたということです。これは作業中に女性ホルモンが皮膚から吸収されて、乳腺の発達をうながしたものと思われます。乳房の肉体実は、人間特有のものであって、他の動物の乳房にはわれわれは肉体美を発見することはまずありません。
牛や山羊のピンク色の乳房はちょっとばかり美しく見えますが、あれは製乳機械としての横機械美ともいうべきものでしよう。
哺乳顆のなかで一風変っているのは、カモノハシというオーストラリア産の動物で、乳房というものはなく、からだの表面から乳がにじみ出てきます。哺乳のときは母親は仰向けにひっくり返ります。すると、予は母親のお腹中をペロロとなめてしみだす乳を吸うのです。それにつけても、カモノハシの雄どもは、オッパイというものの魅力を知らないあわれな奴等です。
さて、あるところに、人の人妻がいました。あるとき、乳房をはらして痛くてたまりませんでしたので、近所の医者のもとにかけつけました。ところがあいにく留守でしたので困惑しましたが、ふと近くに獣医さんがいることを想い出して、「獣医さんでも、医者は医者にちがいない」と考えて、獣医さんの門を叩きました。「先生、御迷惑でしようが、乳房がいたくてたまりません。ひとつ、みては頂けないでしょうか?」「いいとも、いいとも、たやすい御用だ。さあこの寝台の上に構になりなさい」というわけで、女は寝台の上に横になりました。すると、獣医は彼女の胸元には目もくれず、ハッと彼女の裾をまくって、下腹部へいなり手をつっこんだので、女はたまげて、ガバッとはね起き、「あれっ先生、何をなさいます!」と、鋭くきめつけますと、獣医先生は、頭をかきかき、「これは失礼しました。いつも牛の乳房を吸いつけておりますもので、あなたのもテッキリとここあるものた感ちがいいたしました!」と、あやまったそうです。