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甲斐駒ヶ岳開山 長野県資料1『茅野市史』

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茅野市 修験道の歴史 権三郎について
茅野市史 第4巻 第3節 修験道(1036ページ)
修験道の普及
修験道とは役小角を祖とした仏教の一派で、日本固有の山岳信仰がもとになって盛んになった。醍醐天皇の時代(平安中期)に真言宗の聖宝が三宝院流を開き、堀川天皇の時代(平安中期)に天台宗の増誉が聖護院流を開いたという。室町時代になると聖護院を本所とする本山派と、醍醐寺を本所とする当山派が対立した。この両派は大峯・金峯山など吉野の高山や熊野三山を霊山として修行していた。
 また奥羽の出羽三山にも三山派の本拠があった。発祥についての詳細は不明であるが、崇峻天皇の御子、蜂子皇子もここで修験されたと伝えられ、また羽黒山に陵墓があるということなどから考えると、三宝院流や聖護院流よりさらに年代が古いということも考えられる。修験者は山伏・行者などとも呼ばれ、多くの場合髪は結ばず解き乱し、兜巾を頭上に戴き、篠懸(すずかけ)および結袈裟(ゆいけさ)を着け、笈を負い、金剛杖をつき、法螺を鳴らして山野を修業して歩いた。山伏とは山野に伏し起きするところからきているというが、古い時代には太刀を腰に仰いていたところからか山武士などと書かれたものもみられる。
 修験者は難行苦行して神験を修得し、人々の依頼によって護摩を焚き、呪文を詞し、疾病平癒・災厄除去・悪霊退散、また方位方角をみる、日どりの選択、憑物のはらいから、縁結び、安産祈願に至るまでさまざまな祈祷を行った。
時代が下り、修験道の普及と共に紛らわしい山伏も歩き廻るようになった。 文化4年(1807)の廻状には
「百姓町人等の講を立て、修験の袈裟をかけ、錫杖を振り、唱えごとを申し、家々の門に立ち奉加を乞い、また病人などの祈念を頼まれ、あるいは寄せ集め経を読み、俗にいう山伏体に紛わしき儀致し候由、自然と家業の怠りにもなり、風俗を乱し、第一わがまゝなる致しかた、不らちの至りに候。今後、右体の儀致し慎ものあれば、必ず厳罰申し付けべく候」
とあり、民衆に迷惑がましい行為に及ぶことを取り締ったようである。
さて諏訪における実態については、次の文書によって本山派と当山派の修験者を知ることができる。ただこの文書は年号がないが江戸中期の宝暦ころと推定される。
   御郡中山伏 本山方上年行事
     盛就支配下
  下桑原村   清宝院
  同所     清長院
  大熊村    三良坊
  下菅沢新田  持宝院
  御射山神戸村 光明院
  机村     正学坊
  上蔦木町   金剛院
  柏木新田   大円坊
  北久保新田  範良坊
  中沢村    光学坊
槻木新田   吉祥院
北大塩村   宝泉坊
南大塩村   玄競坊
須栗平新田  栄宝院
  神宮寺村   伴競坊
右天台宗聖護院御門跡御支配
 
当山方触頭 智法院支配下
  小和田村   三光院
  下桑原村   法正院
  古田村    方宝院
  木之間村   蓮花院
  森新田    大法院
  神之原村   宝 山
  和泉村    書法院
  熊井村   慈法院
右真言宗三宝院御門跡御支配
 本山方下年行事
     常法庵支配下
  内田村   不動坊
右天台宗聖護院御門跡御支配 (『長野県史第九巻』より)。
 
右のほか、茅野市域の修験のことを記したものは少なく、宗門帳に記されている名前と年齢、子孫に伝わる院号、誓などの補任状の警、村々に伝わる文書などをもとに概略を述べることにする。ただ伝承のみのものや確認できなかったものについてはあげなかったものもある。
本山派
甲州韮崎より寛文年中に福沢村に移り住んだといわれる善明院の名は、寛文十二年(1672)より宗門帳にみることができる。その次男が分かれて、下菅沢新田に住み、玉法院と称したのは元禄十年(1687)ころのことである。善明院は、文政十年代(1827)まで幾代かその票みえ、玉法院も、その後何代かつづき、慶応四年(1816)まで宗門帳に記されている。下筋の小口汐の開発に力を尽くしたと伝えられる小林大膳は、玉法院の五代目だといい、また前にあげた『御郡中山伏』の中に至る持法院も、その一族である。
槻木新田の智鏡院は、寛文王年の宗門帳に、成就院同行、智鏡院、四十五、とあるのを初めとして今日まで修業が続いているという。『御郡中山伏』に見える吉祥院は、智鏡院の後裔であり、また八ヶ岳開山の、海山坊もそうである。
海山坊は安政二年(1855)、八ヶ岳主峰赤岳へ阿弥陀岳を経て登る、通称「赤岳南口」を開山し、各地に赤嶽講をおこしたという。また、智鏡院の後裔には、福正院、泉林坊・金正坊・萬光坊・延明坊・善栄坊などの名が補任状や家系図にみえる。
 また京都の聖護院所蔵の天保三年『信濃国本山派修験住心院雫帳』に記載されている茅野市域関係の修験には次のような人たちがみえる。
埴原田村竜宝院・大沢新田延命院・北久保新田元明・上菅沢新田用福院・金沢宿正学院・下菅沢新田伯作・同玉法院・北大塩村宝泉院・笹原新田峰元院・須軍新田永法院・南大塩村光明院・福沢村善明院・槻木新田智教院・山田新田吉祥院・北久保新田国法院
このはか江戸後期から末期にかけての本山派修験については、二久保新田の光学および宝順、茅野村の勧行、須栗平新田の光清院、埴原田村の慶仙などが史料にみえる。
当山派
下古田の宮原に、立科山万法院(慶長3年)・立科山万宝院(文政8年)・大仙院(明治21年)など、あわせて七基の修験の墓がある。大仙院は、元治二年(1865)の下古田村宗門帳に、大仙院事立科山万福寺、と記されている当山派の修験院であった。
延命行者 権三郎
上古田村の延命行者は、寛政八年(1796)、今右衛門(小尾)の次男として生まれ、幼名を権次といい後、権三郎と称した。十五歳で家老千野兵庫に仕え、後、下古田の万福院の弟子となって修験を学んだ。その後苦行の末文化十三年(1816)に甲斐駒ケ岳の「裏山道」を開道した。翌十四年(1817)に智徳院の院号を補任され、翌十五年(文政元年 1818)には、延命行者の尊号を受けたが、翌文政二年(1819)に二五歳で没した。そして、文政十三年(1830)には同志によって駒ヶ岳講が結成され、請負は、甲州・信州・武州・相州などにわたって数千人にも及んだという。村人からは、威力不動明王とあがめられている。
他の修験道 信濃
 神之原村の信濃(原田)は、名を弥吉といい、江戸に出て修業を重ね、大
名・旗本などの求めに応じて加持祈祷を行ったという。その後、八ヶ岳の赤
岳開山の志をたて、同郷の源吉と協力しあい、江戸浅草に赤岳講を起こし、
安政七年(1860)、講の人々を率いて来諏し開山したという。
 そのほか当山派修験者として、笹原新田の草分け、半四郎の峯元院、植原
田村の永福院などがみられる。
三山派ほか
奥羽の羽黒山を中心とする、出羽三山を根拠地として生まれた三山派の修験者は、村々に三山講・羽黒講・湯殿講などを結成し、その先達となって、さかんに登山し修業した。
穴山新田に明和年間の全性坊、安永年間の大徳院、文化年間の智了院、嘉永年間の智楽房、また、坂室新田に文化年間の清浄院・円定坊・松本坊などの補任状がみえる。今日も村々の辻などに、「三山大権現」と彫られた巨大な碑をみることができるが、三山信仰の盛んであったことを物語っている。
また木曽の御岳信仰もさかんであった。武津村(諏訪市)に十年間滞在したとういう普賢行者(1801没)などにより、各地に御嶽講が結成されて、その中から生まれた先達の修験者により、講の人々は登山修業し、また村近くの山の頂に、神社を分甲して信仰した(西茅野の御岳山など)。
また、赤岳開山として先に述べた海山坊(冨田謙明)や原田信濃らより五〇年も早く、赤岳開山をしたという作明行者(東城)が、槻木新田にいた。作明は、享和年間(180103)か文化のはじめころ苦心の末八ヶ岳の赤岳を開山し、国常立命・金山寧日本武尊を祀ったといい、下槻木の赤岳神社里宮に神力不動明王として碑建てられている。このほかに、第二節で触れたが堀新田の大日堂には羽黒山末派徳法院配下の養福院の名が至る。また泉野中道の赤岳神社里宮の境内には「雷開山直明行者」の碑が建てられている。
こうした修験者に対して明治新政府は、帰農・復職を命じ、一時は全く廃れたかに見えたが再び台頭し、今日に続いているものもある。

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