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甲斐駒ヶ岳開山 資料『甲斐の修験』

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修験
修験は、我が国古来の原始的山岳信仰と仏教の密教的信仰とが習合された宗教であって、山岳に登り修行をつみ呪力を体得すること、また体得した山伏に対して帰依することである。奈良時代の役の小角を開祖とし、平安時代の聖宝を中興とした。紀伊半島の熊野大蜂、金峰山、出羽三山、四国の石槌山、九州の彦山が山伏の中心道場であった。
室町時代に天台宗城寺聖護院系を本山派といい、真言宗醍醐寺三宝院系を当山派と呼んで組織された。開祖役行者が奈良県吉野山から大峰山にかけての山々金峰山に住んだという伝説から、平安時代以降この地が修験道の聖地とされ、貴族の間にも金峰山に詣でる弥勘浄土、密厳浄土と信仰されて埋経もしきりに行なわれた。また金剛蔵王菩薩が山の主とされて堂舎の発展を見た。
甲斐では
甲州においても、平安時代に入ると、富士山・金峰山・地蔵ガ岳・鳳凰山・大菩薩をはじめとする霊山を中心に山岳宗教が盛んになり、中でも金峰山と富士山は信仰の拠点であつた。
金峰山
甲州の金峰山も吉野に擬して、平安の中期から後期にかけて顕著な発展をみた。府中の北方拾弐里の山頂に蔵王権現を祀り、金峰山への登り口としては数カ所あって、南登山口が御岳村(甲府市御岳町)、東登山口として仙口村(東山梨郡牧丘町仙口)、西登山口として小尾村(増富)、北登山口として信州佐久郡等があって、各登り口とも里宮に金桜神社を建て蔵王権現を祀り、山頂の蔵王権現を本宮とした。この金峰山蔵王権現には富士山と共に修験者修行の霊場として、盛んなときには全国から山伏が集って大峯入りと称し、登山して行を修めた。この修業の中心になる蔵王権現、里宮である金桜神社は神仏混淆の社であって、お宮には社憎がおり実権をもっていた。そして社僧と修験者は性格的にも類似したところがあり、修験者は社僧を通して峯入の拠点としていた。
金桜神社
 東山梨郡杣口村の金桜神社は、地名を米沢といい、往古は大社であったが後世荒廃して臨済宗雲峰寺の境内になっているが、寺中に蔵王権現が祀ってある。延喜式所載の山梨郡九座の内の金桜神社はこの社をさすものである。
大善寺
先年発見された勝沼町大善寺東方の白山平から出土した康和五年(1103)の長文の銘をもつ経簡は、この金桜神社の別当であった米沢山雲峰寺において書されたものである。銘には山城国乙訓郡石上村出身の寂円なる僧が、康和二年(1100)に甲斐国山東郡内牧山村米沢寺の千手観音の宝前に籠居して、如法経を書写し大善寺において供養して理経したことが記されている。この銘文にある米沢寺は雲峰寺を指している。この時代には末法到来の危機を感じ寛治四年(1090)道長が吉野の蔵王堂に理経したことは有名であるが、米沢寺写経も末法思想の中の蔵王権現信仰のあらわれである。
道者海道
 現在でも青山千坊・東谷・西谷・神願坂・飯関三十八末社等の遺跡が残されている。この金桜神社より金峰山まで七里の道程があり、また南方富士路黒駒に達するを道者海道といい、富士山と金峰山を結ぶ修験者の通用道であつた。  
奈良の吉野に皇居があつた南北朝時代には、諸国の山伏が甲州の金峰山に修行したことが伝えられている。現在金桜神社に南北朝時代の蔵王権現像が祭祀してあるが、当時の繁栄を物語るものであって、蔵王権現すなわち金剛王菩薩は、胎蔵界釈迦院の釈迦化身の教令輪身といわれるもので、荒っぽい雄渾な力をたくわえることが理想視されたのであった。
一方北山筋御岳村の金桜神社も金峰山の里宮として、伝えでは雄略天皇十年に里宮に分社したものとされているが、平安末期から修験の蔵王権現への拠点となったもので、とくに鎌倉末期以降は仙口の金桜神社より隆盛をきわめたことが、昭和三十年に焼失した金桜神社中宮本殿・東宮本殿などから推察することができる。この神社は正殿・中宮・東宮の三殿があって、中宮は正殿と東宮の中間にあって日本武尊を祀り、鎌倉末期の建造物であつた。正面三間に八双金具で飾った板扇を立て壮厳を極め、本殿向拝上三個、長押上に配置された三個の葺蟇は蓮花彫刻が施され、神仏混滑の影響を如実に示している。
『甲斐国志』
 『甲斐国志』によると、南北朝時代には、関東関西の山伏等皆な此山を大峰に擬し入峯して修行した。六月十五目を峯入の初日とし、御霊渡場より御霊平に上り八王子峰(猪狩村)にかかり横路を経て御岳に至り、登拝の者は八・九月の間を候とし、御岳里宮より登った。山北薬師ケ岳に牛頭天王の祠があり、金峯の奥の院と称するこの下川端下村に盤古の岡があり、三女神を配祀してあってこの辺を戦場高天の原といった。神社の社職に三派あって、社僧は読経して法味を献じ、社人は斎戒して神事を奉納し、年番神主は公用神役を兼帯し、三沢会合して恒例の神事・臨時の新宿を勤め、毎七年目総代を以て御祓を献上し正月六品目空した。社僧12坊弥警の開山は明らかでないが、真言宗醍醐報恩院に隷し、支配の坊には中之坊・下之坊・大部坊・西之坊・刑部坊・滝本坊の六カ所があった。この坊が修験の峯入の拠点になる場所であって、宿坊も兼ねのちの御岳御師として発達していったのである。
富士山
往古において、金峰山と共に修験の峯入の盛んであったのが富士山である。北口の河口は北方御坂山塊越えに河口の里に入って、河口湖畔から吉田へ廻って頂上までのびていた。この古道は後に甲州街道の開発によって桂川筋の富士道と吉田で合流し、吉田口が登山口として盛んになっていった。
このほか東麓須走から登る古道を東口と呼び、南東愛鷹連峰との裾合から拓いた一路があって、いずれも山岳仏教の修験者たちが、度重ねて入峰した踏跡が、次第に踏みひろめられた古峯入路で、修験者たちが富士山を練行道場して登山するときの拠点霊場を拡充するための争いがしきりに行なわれた。
村山口に本山派の修験者が入蜂の足場を固め河口では当山派の修験者が北口を護り、信徒と各師檀関係を結び、熱心な旦那を山中錬行の場所近くへ案内するようになった。これが富士講先達の興りである。修験者が入峯するのは、毎年春秋の二回で、春の峰入を華供の峰といい、農耕をはじめる頃各修験者もちの信徒の五穀豊穣無事息災などの代参祈祷のため、五合目の錬行場で修法を厳修したのである。秋の峰入は初夏から初秋にかけての修業で、本格的な富士練行であった。
年二何の峰入は民間信仰として、春田の神を山から迎え、秋また山へ送るという、農耕信仰として行なわれた。戦国時代の末から浅間信仰が特に盛んになり、一般登拝者に不踏の門戸を開くことになり、この時点から従来の考えが異なり、そこに富士講特有の型が生れて行った。社僧は自坊を開放して導者の宿舎とし、通行税を取り営業化していったため、本来の祈祷師とは幾分内容を異にした社僧が、より御師的な働きを行なった。
上吉田口
上吉田の場合、天正弐拾年(1592)の地割からみられるところの川口坊・毘沙門屋・珠数屋・浅間坊などはおそらく、かつての真言・天台の坊または修験者の拠点になっていた坊が、近世当初御師団を形成して発展した、ひとつの形であると推察ができる。
一方寺院としての体裁を整えていた真言・天台寺院は山岳仏教の変遷にともない、経済的理由もあってむしろ廃寺となり、中世に他に転宗しているのが実態である。上吉田の西念寺は行基の創立であり、富士来迎の阿弥陀三尊を安置した古刹である。祥春庵は浅間神社の師職を兼ねており、下吉田の月光寺は、かつて天台宗として浅間神社の祈祷を掌(ツカサド)っていた。
一方富士山の麓鈴原には大日如来の社、中宮社など修験につながる社が多い。
 また八代郡右左口村の七覚山円楽寺も役小角の草創にかかる寺で、大宝元年(701)卓錫して始めて富士登山の路を開くとあり、役行者堂がある。全盛時代は本州修験道の巨頭で、山中に数多の堂坊を建て、南北朝時代には七覚山徒が石和氏と結んで国主武田信武と争ったことが伝えられている。
鎌倉時代
 こうして金峰山、富士山等深山幽谷に入りはげしい練行、苦行を積み、自己の験力をあらたかなものにしようとしたのであるが、鎌倉時代には武士・庶民が進んで山伏の先達につれだって峰入をして行を積むことや、自己の意志を先達にしるして峰入りの代りをしてもらう代参が行なわれ、金峰山や富士山等の麓に拠点としてあった山岳宗教が、この平安時代の末から鎌倉時代にかけ里に下っていった。
伝云宝日修験道ノ盛ナリシ時ハ小室妙法寺、休息立正寺、柏尾大善寺、七覚円楽寺、窪八幡普賢寺、藤木法光寺ノ類皆修験ノ渠魁ニシテ此ニ会衆シテ行法斎戒ヲ修セシ由ナリ今其事ハ止ム (甲斐国志巻九十一)
 このように修験の盛んな時代には、これらの寺院は拠点となっていたが、のちになって修験は真言・天台宗の別派の如き考えをもつようになって、修験道として固まったので純然たる学僧は山伏を軽蔑し、寄任させることに不満があった。また山伏同志も争いが絶えなかったようである。
小室妙法寺 休息立正寺
 小室の妙法寺は往古は真言宗であって、肥前上人は東三十三国山伏の司であったという。また休息の立正寺も真言宗であって、永保三年(1083)時の住持覚範阿閣梨は専ら真言修験を行ない、関東三十三カ国の棟梁として部内を取締るに至った。この時代を子安千坊と称する塔中の数千余、末寺数百を有し宗風全盛を極めたといわれている。
柏尾の大善寺 藤切 鳥居焼
 柏尾の大善寺も修験道の根本道場であって、寺中六力院のうち玉善院・一乗院・大覚院・竜宝院の四力院は本山修験であった。毎年四月十四日(現在が五月十八日)の礼祭に行なう児子舞、修験者による藤切も当時を偲ぶ行事である。この藤切りと同じ行事が八代郡右左口村の円菜寺にも伝えられており、其戟(しんきり)と呼ばれている。
なお大善寺には鳥居焼と称せられる精霊送り僚の道風がある。また鳥居焼には伝えがあり、それは大善寺と共に春日居村に菩提山長谷寺と呼ばれる修験の大刹があって、西山では一年おきに七月十五日の夜、篤火を焼く慣わしになっていた。それは柏尾山と菩提山の衆徒が山伏問答の末、勝った柏尾山側は菩提山側の鳥居(山梨岡神社の鳥居)を奪い取り、菩提山側は柏尾の笈を持ちかえり、夫々これを焼却し合ったことにはじまるという。この行事は孟蘭盆会の終りの日に、精霊送りの燎(かがり火)を焼いたことは諸国に残っているが、これは平安以降鎌倉時代仏教の盛んな時代に行なわれたもので、とくに修験道に結びついていったものであろう。
山梨郡八幡村普賢寺
 山梨郡八幡村普賢寺は窪八幡神社の別当として大きな勢力をもち、社僧六坊・本山修験五坊をもった八幡宮の神宮寺であった。
藤木村放光寺
また藤木村の放光寺はかつて大菩薩の山麓一瀬高橋部落に山岳仏教として発展した寺で、鎌倉初期に今の地に移して中世に於ける修験道の根本道場であった。
武田信玄時代の修験
次に信玄の時代の時代の修験道の実態をみるに、数字のうえでは把握できないが、真言・天台の往古において隆盛をきわめた妙法寺・大善寺・円楽寺・普賢寺・法光寺資料からして修験の発展過程を推察することができる。とくに信玄は修験に相当な保護を与え、これを利用し、外に対する秘密外交にはその間に介在せしめ、特別の公命によって軍事探偵の役割を勤めさせ、戦時においては戦勝祈願を行なぁせた。
当山派の触頭として、府中元紺屋町の祇園寺があげられるが、清光山峯本院と称し武田の時代躑躅が崎の城南に牛頭天王の社を造営し、武田家の保護を受けていた。祇園寺文書によると永禄三年(1560)に信玄から国中客僧衆、即ち修験に対して条目が出されている。
 条目
一、棟別役之普請、悉皆免許之叓
一、遠国江之便、可相勤之事
一、道者引導之人者、不可有路銭之事
 但依妹可相渡、其外之客僧へハ、如積可出路銭之事
  永禄三庚申(1560)八月廿五日
  国中客僧衆
 第一一条の「遠国之便可相勤之事」とあるが、永禄十二年(1569)園坊宛の晴信判物にその具体例がみられる。
 今度房州江為使者罷越無相違令帰国者、甲州当山之山伏年行夏、可任干所望候、又家壱間諸役、自只今令免許者也、佃如件
  永禄十二年己巳八月拾九日
            覚園坊
 この年安房国里見氏に使者の役を無事に遂行した山臥覚園坊が質せられて甲州当山派の年行事職に補任されたとある。外に対する秘密外交には、このようにしばしば修験を介在させ、特別の公命を申付、軍事探偵の役を行なわせた。また中には行商的に物品売買の取次をした修験さえあった。また第三条に「適者引道之人者、不可有路銭、但依妹可相渡、其外之客僧へ者、如積可出路銭之事」とあるのは信玄家法に
「弥官井山伏等之事ハ、不可頼主人若背此旨ハ、分国徘徊可停止韮也」
とあるのと関連する文書であって、山伏の古い特性である抖(扌数)性、移動性を保存しなければならない、師檀関係の恒常化に伴う経済的得分の固定化を排斥しようとする制条である。
 元三日町の玉泉院も密使の役并に軍中先達法螺貝之役を信玄から仰付られており、この武田軍出陣の折の法螺貝役を勤めた修験には八代海蔵寺、上曽根村東養院などが数えられている。
 武田氏滅亡後、加藤光春の知行地になって修験道界規制の仕方が、些細な点にまで及んでいる。
「当国之山伏年貢之外諸役之義被成赦免上老於誰々違乱不可有之者也」
(上曽根村・東養院文書)
 さらに同院文書で文禄二年(1593)井上梅雲斎栄秀判物には次のように述べられている。
 国中山伏衆諸役並に田地役夫銭共被成御赦免之旨光春様御印差遣候条不可有異儀者也」
 東養院文書に天文八年(1539)の聖護院甲斐国客僧衆番帳がある。東養院は本山派修験甲斐先達二十四院の一である。
 客僧衆御番之次第
壱番  大蔵坊 福泉坊
二番  密蔵坊 京腰妨
 三番  大善坊 勝蔵坊
  四番  東養坊 重蔵坊
五番  地蔵坊 善蔵坊
  六番  大覚坊 満蔵坊
七番  宝蔵坊 一乗坊
  八番  宮内卿 信濃殿
九番  善明坊 南泉坊
 十番  玉泉坊 常兼坊
十一番 東蔵坊 阿蔵坊
  十二番 花蔵坊 不動坊
天文八年己亥卯月吉日 大蔵公
慶長十八年(1613)に江戸幕府は全国の山伏を聖護院(本山修験)・三宝院(当山修験)の両院に分属させた。また儀礼・作法の規定められた。両派の     勢力を『甲斐国志』によってみよう。
 
 
 
本山修験(聖護院)京都聖護院宮下住心院直院 24院
  本山修験                  61院
 計                    85院
当山修験(三宝院)             
京都三宝院門主末流            84院
駿州江尻延寿院同行            51院
勢州世義寺同行              79院
   羽黒派修験                26院
    計                  240院
 また『社記・寺記』によって幕末から明治にかけての実態を見ると、本山修験122院・当山修験226院と数字の上からは、本山修験は増加を示しているが、これは他宗の場合と同じように必ずしも幕末から明治初年にかけ本山派が活発になったのではなく、『甲斐国志』の資料が細部にわたって調査されたのに対して『社記・寺記』の資料提出が杜撰であつたとみた方がよい。
『甲斐国志』(割注『社記・寺記』の間違いか)の修験の部よって幕末の修験道の実態を見るに、本山派としては、京聖護院宮下住心院直院の本山修験甲斐
24箇院がある。聖護院は天台宗寺門派の大本山であって、住持は園城寺の長吏と熊野三山の検校とを兼ねていた。そこで慶長十八年(1613)江戸幕府から修験道本山派法頭に定められ、山伏の本山となった。これが修験道本山派のはじまりである。
 甲州本山派二十四院の主なところをみると、府中元紺屋町福昌院、熊野山と称し霞場は東河内領であって、もと城屋町にあり、慶長年間に御城の鬼門鎮護のためこの地に遷された。また境町にある三光院は稲生山と呼び、霞場は西河内領であって、元城屋町にあったのを遷し、御城内の御祈願所であつた。
 文政八年(1825)に三光院と八代郡市部村花蔵院が、本山派二十四院の年番役を毎年相談の上で二人ずつ置くことを決めて寺社奉行に届け出ている。和田平町の松雲院は、右左口七覚山の塔頭を移している。
その他二十四院に数えられている寺院に、
白木町万能院・元三日町玉泉寺・三日町大東院・金手町愛染院・板垣村観音院・一宮村大善院・同村正蔵院・河原部村善明院・同村宝積院・同村長学院・小笠原村持宝院・大八田村自性院・白須村斎法院・同村文殊院・岩尾村加納院・西野密蔵院・上宮地村一乗院・西南湖村常乗院があり、本山派の年番役を輪番にて二力寺ずつ交代で行なっている。
他に本山修験六拾箇院があり、その主な寺院を拾ってみると、西保中村の大徳院は昔は金剛坊といい、金峯山の初地役の行者堂の別当であったと称し、初期の修験が後世になって里に下ったことを示している。一宮村の興法寺も三坂山と号し三坂山の行者堂であったものが、近世になってから山を降りている。その他60余カ寺の寺院名は、『甲斐国志』修験之部に詳かである。
 天台系を中心とする本山派に対して、真言宗醍醐派の総本山三宝院を中心とする修験を当山派と呼び、本山派の役小角を開祖としているのに対して、当山派は理源大師聖宝を開祖として強調した。
  甲州の当山派修験を『甲斐国志』にみると、直接
京都三宝院門主末派が84院、
駿州江尻延寿院同行が51院、
勢州世義寺同行が79院、
奥州羽黒派26院があり、
総数では244院あって本山派より勢力があった。

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