阿茶の局 あちやのつぼね
江東区深川三丁目に雲光院という寺がある。雲光院殿従一位尼公阿茶の局の本似で建てられた寺で、局の墓も現存している。
局は徳川家康の侍女で、慶長十九年(一六一四年)大坂冬の陣に家康に従って出陣、十二月十八日京橋次屋で、秀吉の北政所高台院と会って講和の打合せを行い、二十二日高次の妻常高院と共に大坂城に乗り込んで、秀頼父子から講和の警告を受けとるなど、東西和睦に活躍した。
この人は今川家の臣神尾忠重の妻だったが、二十四歳で後家となって家康に仕えた。
幕府祚風伝によると天正十二年(一五八四年)長久手の陣中で流産、とある。家康はどの戦場にも何人かの妾をつれて歩いているが、この阿茶の局などは陣中用の妾をもっぱらつとめていた。
家康は後家好みで二妻十五妾があり、他にもちょっとだけという侍女が多勢いた。阿茶の局は寛永十四年(一六三七年)正月二十二日、八十三歳で桜田の邸(港区外堀通り虎の門北側)で歿した。