安積艮斎 あさかこんさい
『江戸市井人物事典』 北村一夫氏著 新人物往来社 一部加筆
駒形橋を墨田区へ渡った東駒形一丁目の大川端は、かつて本所番場町といった所。ここに妙源寺(現葛飾区掘切三丁目)という寺があった。
文化十三年(一八一六年)のこと、住職の日明和尚が乞食同様の若い男を拾ってきて寺に食させ、望みにまかせて学問をさせた。後年「艮斎文略」を著わした昌平坂学問所教官安積艮斎の若き日のことである。
艮斎は奥州二本松の人で、十六歳の時近村の名主の家へ養子にいって家付きの娘と一緒になったが、その女房たるや松の木丸太のような色黒の物凄いしこめ、しかも力が強くて若い夫を虐待する。辛抱しきれなくなって着のみ着のまま逃げ出し江戸へ向かったが、途中でついに乞食にまがう有様となった所を日明和尚に救われた次第。
功成り名とげたあと、艮斎は、自分が今日あるのは一にその悪妻に虐待されたおかげ、と床の間に醜女の肖像を掛けて毎日拝んだ、という。
艮斎の墓は妙源寺にある。
寛政3年(1791年)3月2日、陸奥(後の岩代)二本松藩の郡山(福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれる。名は重信、字は子順(しじゅん)、通称は祐助、別号は見山楼。
17歳で江戸に出て佐藤一斎、林述斎らに学ぶ。
文化11年(1814年)、江戸の神田駿河台に私塾「見山楼」を開く。見山楼は旗本小栗家の屋敷内にあり、小栗忠順もここに学んだ。
天保14年(1843年)に二本松藩校敬学館の教授、嘉永3年(1850年)には昌平黌教授となり、ペリー来航時のアメリカ国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わる。また、幕府へ外交意見として『盪蛮彙議』を提出した。
万延元年(1860年)11月21日没。没する7日前まで講義を行っていたと伝えられる。墓は東京都葛飾区の妙源寺にある。