日本の良妻賢母 阿仏尼 あぶつに
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
熱烈な恋愛敗れ、放浪出家した後、「うたたね」「十六夜日記」、歌論書「夜の鶴」「阿仏尼風誦」を著した歌人。
出家前には、安嘉門院四条と呼ばれていた阿仏尼は鎌倉への旅を綴った『十六夜日記』の作者として知られている。むろん『十六夜』は本来の書名ではなく、古くはノンタイトルの紀行文で、一般には『旅次ノ記』と呼ばれていたらしい。
阿仏尼の生没年や出自は不明だが、佐渡守度繁の養女となって、十代半ばから安嘉門院に仕えていた。安嘉門院は後高倉院の皇女、邦子内親王で、後堀河天皇の准母である。はじめは越前、後に右衛門佐と呼ばれたことから、親か兄弟がその官職にあったものと思われるが、詳しいことはわからない。性格は情熱的で奔放、若い頃は失恋の痛みに堪えかねて親王御所から失踪したり、衝動的に髪を下ろして出家したり、遠江国まで放浪したりしたが、やがて法華寺に住み、建長五年頃には藤原為家の知遇を得て、側室となった。
為家は『百人一首』や『新古今和歌集』の撰者として知られた藤原定家の嫡子で、定家亡き後、歌壇の重鎮だった。為家は若く奔放で才気に満ちた阿仏尼を寵愛し、為相と為守の二子を儲けた。為家の正嫡為氏は御子左家を継ぎ、阿仏尼とのあいだに生まれた為相は冷泉家の祖となった。
御子左家は分裂して二条家と京極家に分かれ、歌道師範家は、二条、京極、冷泉の三家に分かれて主導権を争い、それぞれ大覚寺統、持明院統の庇護を得て勢力の伸張をはかったが、南北朝時代に入ると、いやでも政治抗争に巻き込まれてゆく。
晩年の為家は阿仏尼を寵愛して、播磨国細田庄を為相に与えると遺言に書いた。そのことから為家の没後、為氏と阿仏尼の通産相統争いが起こる。阿仏尼は控訴のため、弘安二年(一二七九)に鎌倉へ下向する。
『十六夜日記』はそのときの紀行文と鎌倉滞在記だが、訴訟は解決を見ないまま、四年の滞在をへて、阿仏尼は鎌倉に客死する。為家と逢瀬を重ねていた頃の歌。
「あかぎりし闇のうつつをかぎりにて、又も見ざらん夢ぞはかなき」
(大久保智弘氏著)