日本の良妻賢母 恵心尼 えしんに(親鸞の妻)
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
夫親鸞を心から尊敬し、最大の理解者として北国普及に従事し、また夫の信仰や事績を書き残した、第一の弟子。
親鸞の妻恵信尼は、越後介三善為教(タメノリ)の娘とされる。
法然に帰依していた親鸞が、専修念仏の禁に遭って越後に流されたのは、承元元年(一二〇七)のことだった。
親鸞は配流先の越後国府で、生涯の伴侶であり、最大の理解者となる恵信尼と出会って第二の妻とした。第二の妻と言ったのは親鸞がすでに世帯していたからだが、第一の妻とのあいだに善鸞と一女を得たというが、どのような女性であったのか詳細はわからない。
越後に流された親鸞の暮らしぶりは、これまでは不明とされていたが、西本願寺の秘庫から『恵信尼消息』が発見されたことから、おぼろげな輪郭がわかるようになった。
恵信尼は親鸞とのあいだに子を産んだが、信蓮房は中頸城郡板倉の栗沢に住み、高野禅尼は板倉の高野に住んでいたらしい。恵信尼が住んでいたのは別所川左岸の飛田で、父の居館からそう離れていないところで八十八歳という長い生涯を送った。厳しい北国に配流された親鸞は、恵信尼の実家から手厚い保護を受けていたものと思われる。
赦免された後も、親鸞はなおも妻子とともに三年をすごしたが、やがて東国の布教を思い立ち、恵信尼を越後に残して、常陸国笠間郡稲田に移った。恵信尼は親鸞第一の弟子として、北陸の布教を担った。北陸に浄土真宗が広まったのは恵信尼の功績と言ってよい。
『恵信尼消息』には法然を知った親鸞の決意を「上人(法然)給はん所には、人は如何にも申せ、たとひ悪道にわたらせ給ふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめ、と思ひ参らせる身なれば」
と書き留めている。
親鸞の死を告げる娘の手紙を受け取った恵信尼は、すでに八十歳をすぎていた。そのときから堰を切ったように、意信尼は都に住む娘覚信尼に、父の思い出を伝える消息を書き綴った。
「こまかに、こまかに申したく候ヘども、只今とてこの便り急ぎ候へば、こまかならず候ふ」偉大な夫の信仰を子に伝えたいと願う妻の「愛の手紙」と言ってよいだろう。(大久保智弘氏著)