日本の良妻賢母 巴御前 ともえ・ごぜん
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
天性の美貌を誇り、また「一騎当千の兵」と伝えられた、源平争乱の歴史に夫義仲への「至誠の愛」を刻んだ女性。
源平争乱のさなか、巴御前の存在は、同時代の女たちのなかで、ひときわ美しく輝いてみえる。戦場における彼女の獅子奮迅の闘いぶりもさりながら、夫と思い定めた只一人の男を命がけで愛しぬき、男の危機には敢然と立ち向かい、そして彼の死と共に、自らも静かに歴史の表舞台から消え去って、二度と顔をみせることのなかった、その見事な退き際と純愛のゆえである。
巴は木曽谷の豪族中原兼遠の娘である。義仲の父源義賢が、同族の源義平と争って殺害されたとき、義仲は二歳であった。
彼自身も命を狙われるが、それをかくまい育てたのが兼遠である。さらに兼遠は義仲が成長すると、彼に自分の娘たちを与え、息子たちは義仲の臣下にして、忠節を誓わせる。一族の命運を、この源氏の血をひく御曹子義仲に託したのである。
巴はこの父親のもとで、武術の英才教育を受けながら、義仲への愛を育んでいったのであろう。『源平盛衰記』では巴は妻と記されているが、兼遠にも巴にもその意識はなかったと思う。
「正妻がいたとしても、自分もまた義仲の妻」。巴の気持ちであったに違いない。だから京都から平家を追い出した義仲が、一転、義経・範頼に追われる身となり、逃れ逃れて最後は主従五騎となって命運極っても義仲の傍を離れなかった。
生きるも一緒、死ぬるも一緒。そう願う巴に義仲は言う。「自分はここで討死する。お前は疾く忍び落ちて信濃へ下り、自分の死のありさまを人々に語ってくれ」と。巴は拒むが、ついには承知して、「ならば自分もよき敵と最後の戦をしてご覧に入れましょう」と、ちょうどそこへ寄せてきた三十騎ほどの敵勢のなかへ駆けこみ、大力の武将と渡りあって首をねじ切ってしまう。そうして鎧を脱ぎ捨て、黒髪をなびかせて東へと落ちてゆく。(桑原恭子氏著)