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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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日本の良妻賢母 常盤御前 ときわごぜん

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日本の良妻賢母 常盤御前 ときわごぜん
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
 
美女中の美女と評され、戦乱期に悲惨な人生を余儀なくされつつも、忍耐による勝利を身をもって明かした女性。
 
常盤が、九条院呈子に雑仕女(ゾウシメ)として仕えていたとき、都の美女を千人集めて、眉目(ミマ)較べをするという催しがあった。その催しで常盤はトップに選ばれた。まさに美女中の美女であったわけだ。そしてその美貌のおかげで源義朝に愛され、今若、乙若、牛若(後の義経)をもうける。そのままゆけば、源氏嫡流の武将の愛人として、相応の栄華が保障されたはずであった。
だが義朝は平治二年(一一六〇)正月、平清盛と戦って敗れ、東国へ落ちのびる途中に殺されてしまう。
常盤は清盛の追求を逃れるため、三人の子を連れて、大和国に在る親戚を頼りに吹雪のなかを彷徨う。真冬の寒さと凍てついた山路に苦しみながら、ようよう辿りついたものの、そこで都に残してきた母が清盛に捕らえられたと聞く。
常盤は再び子供らを連れて京へ戻り、清盛の前へ出て、洞ながらに母親の命乞いをするのである。その実しくも哀れな姿に、清盛も心を動かされ、常盤を妾にする条件で母親の助命を認める。常盤はこれを受け入れ、やがて廊の御方とよばれる女児を産むが、間もなく退けられ、次は大蔵卿藤原長成の妻となり、何人もの子をもうけたと後日談は伝える。
その真偽はともかく、清盛の妾になるのを承知した常盤の胸中に、どんな思惑が働いていたか興味がわく。
そもそも清盛の前へ出たとき、彼女に、千人もの内から選びぬかれた自分の美貌を悼む心がなかったはずはない。とすれば清盛が出した交換条件は、それこそ想定内のことであった。そうして母親も白身も子らも命永らえ、やがて子供らが成長の暁には、義朝の仇を討ってくれもしよう。その計算を胸の底に抱いて、自分を清盛の贅にする生きざまを子供に見せることで、忍耐の勝利を教えたのである。(桑原恭子氏著)

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