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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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日本の良妻賢母 建春門院 

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日本の良妻賢母 建春門院 
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
 
恵まれた才色兼備と自己抑制によって後白河院の愛情を一身に受け、国の母として高倉天皇を支えた建気な優等生。
平時信の娘。名は滋子。清盛の妻時子の異母妹である。少弁局と称して上西門院に仕えていたとき、後白河院の後宮に入り、殊のほかなる寵愛をうけたといわれる。そこには一つに、彼女の背後で睨みをきかせている清盛の存在が大きかったと思われるが、滋子自身も、院の心を引き留めておくためにずいぶん努力をしてもいる。
たとえば、彼女が仏法に深く帰依していて最勝院を創建したとか、安元元年(一一七五)には、都から徒歩で四十日かけて熊野へ参詣し、本宮の社前で「胡飲酒」の舞を奉納したところ、その最中に突然の大雨となり、髪も衣裳もずぶ濡れになったが、最後まで舞い納めたとかである。こうしたことは、共に信仰心の篤かった後白河を、大いに喜ばせたにちがいない。
滋子に仕えた建寿御前は滋子の常々の言葉として、
「女は自分の心の持ち方次第で、幸福にも不幸にもなる。我意をつつしみ、卑下もせず、品位を保っていれば、自然に、身に過ぎた倖もおとずれよう」 と、女房たちに語っていたと伝えている。つまりそれは、彼女が日頃、自らをそのようにコントロールしていたということであろう。
 また健寿御前は書く。夏の昼下がり、まどろみから醒めた滋子が、あまりの暑さに
「袷の小袖の胸をひきあげて、ふたふたと煽がせ給ひし御姿」 
には、こぼれるばかりの愛矯があったと。さらに衣裳なども、色白の顔が酔えるような、色合いの美しいものを着用し、ときおり額髪がはらはらとこぼれるさまは、この世に較べるものがないほど魅力的であったという。
まさに才色兼備。しかも滋子が産んだ高倉帝は、下々への思い遣りが深かったというから、皇子の訓育から自身の修養まで、いたいたしいほど努めた姿が見えてくる。(桑原恭子氏著))

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