日本の良妻賢母 藤原定子 ふじわらさだこ
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
関白藤原道隆の娘である定子は、一条天皇が十一歳で元服した正暦元年(九
九〇)に入内して中宮となった。
天性の美貌と優しさ、さらに知性を兼ね備えていた定子は、三歳年下の天皇に愛されて幸せな歳月を過ごした。だが、長徳元年(九九五)に父の道隆が急死したことを契機として、彼女は悲哀の淵へ引き込まれていく。
その翌年の一月、兄の伊周(コレチカ)と弟の隆家が、他愛ない誤解から花山法王を恨み、その袖口へ矢を射かけた罪により左遷されてしまったのだ。懐妊中の定子は立場を失い、四月に宮中から退出、その後に自ら黒髪を切って尼となり、同年の暮れに修子内親王を産んだ。
翌年の六月、天皇の命により定子は後宮へ帰った。
親族の咎に依り出家した女性を還俗(ゲンゾク)させ、後宮に戻すことは異例であり、周囲から批判が噴出した。だが、天皇は批判を押し切り、かけがえのない良妻を呼び戻したのだ。
その後の長保元年(九九九)八月、再び懐妊した定子は、実家で出産するという宮中の習わしにより退出し、罪人となった兄弟の屋敷を憚って、中宮職の大進(三等官)である平生昌(タイラノナリマサ)の粗末な屋敷に滞在する。
同年十一月、定子は敦康親王を産んだ。翌二年二月に後宮へ帰った定子は皇后となり、新たに入内した左大臣藤原道長の娘章子が中宮の地位につく。
だが、天皇の愛は一途に定子へ向けられ、またもや懐妊した彼女は生昌邸へ赴いた。 同年十二月、定子は妹子内親王を出産するが、産後に衰弱し、二十四歳の短い生涯を閉じた。
後に、死を予感していた定子の辞世
夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき
(夜を徹して愛し合ったことをお忘れでないのなら、死後も私を恋い慕い、悲しんで下さいますよね。その涙の色が見たいのです)
他二首が見つかり、天皇の涙を誘った。(水沢龍樹氏著)