日本の良妻賢母 清少納言
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
一条天皇の中宮藤原定子に仕えた清少納言は、自著『枕草子』のなかで
「将来への展望もなく、まじめに夫と暮らし、かりそめの幸せなどを夢見ている人は鬱陶しくて、軽蔑したい気分になる」
と、家庭にこもる女性を批判している。
だが、そう言う彼女自身が、後宮へ入る前は主婦として家事に勤しんでいた。しかも、夫の橘則光は「歌を詠んでくるような人は仇だと思う」
と断言する、和歌が苦手な無骨者だ。
則光は夜陰に群れる曲者どもを退治したこともある勇者だが、歌才を尊ぶ貴族社会には不適格な人物で、いっこうに梲(ウダツ)は上がらなかった。
歌人として名高い父清原元輔のもとで教養を深めた清少納言は、十代の半ばから十余年にわたり、この性格が全く異なる夫と暮らし、息子の則長を産み育てていたのだ。
人一倍プライドが高かった清少納言は、則光との生活を退屈に感じ、彼の不器用さ、不甲斐なさを嘆いたこともあったと思われる。
先に紹介した世の女性たちに対する批判は、そのような暮らしのなかから生じてきたものかもしれない。
だが、彼女は『枕草子』のなかで、自身の過去を悔やんだり、また則光を軽蔑したりはしていない。
正暦四年(九九三)の頃に家を離れ、定子付きの女房となった後も、清少納言は則光を兄と呼び、則光は彼女を妹と呼んで、親しく宮中で交際を続けていた。その当時は、すでに清少納言と則光が離婚していたとする見方が定説となっている。
だが、古来、兄妹は肉親のほかに、配偶者を差す言葉でもあり、互いに束縛し合わない友達のような夫婦関係が続いていたのではないだろうか。事実、漢籍に精通した清少納言の教養や、当意即妙な機知が周囲で評判になると、則光は我がことのように喜び、誇りとしていたのだ。
この二人のモダンな関係は、遠江介となった則光が任国へ下向する頃まで続
いた。(水沢龍樹氏著)