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正徳太子 しょうとくたいし

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正徳太子 しょうとくたいし

                  (五七四~六二二)


奈良本哲也氏著(歴史家)『別冊歴史読本』

「目で見る日本の英雄百五人」217610創刊号 一部加筆


 わが国の歴史上の人物で、才も識もあり、道徳的にも完全無欠で、しかも立派な政治を行なった人は誰だろうというと、すぐに聖徳太子が浮かんでくる。

  仏教や儒教の道徳はもちろんのこと、現代の道徳からいっても口をさしはさむ余地がないかのようである。

  それだけに神話化され、伝説化された面も少なくない。

  世のなかには、確かにそういう人物もいないことはない。殿様などに生まれて、ただ自分を慎むことだけに心を使い、政治的には何もしなかった人物である。そのような殿さまは、まるで仏のような人と呼ばれた。

  しかし、いやしくも国家の大事ととり観み、世の中の政治を大きく転換した人で、少しも悪口がないというのは不思議なことである。

  私なども大いにそのような疑問を持つことがある。

  冠位十二階をさだめ、十七条の憲法を制定したという。それは、これまでかなり分散的であった豪族たちの力を、国家の統一という観点から削いでゆくものであった。つまり、統一政治の理念をつらぬき、彼らの力を一つの秩序のなかに組み込むことなのである。

  仏教を尊崇して、巨大な寺院を営むということも、これまでのわが国の神道崇拝からいえば大きな思想的転回である。すでに、蘇我氏と物部氏の争いがあったが、その戦いで神道派の物部氏が亡ぼされたといって、それまでわが国の社会に根強く浸透していた神々の信仰が、一挙にくずれ去ることはないであろう。それは、のちの弘法大師の教えをみてもわかることである。

弘法の頃は、奈良時代という仏教の国教化の時代を経ていた。そして、その仏教ももっと深く理解される段階にきていた。しかしながら、それでも弘法は神道と妥協を計らなければならなかったのである。だから、聖徳太子の時代には、もっともっと大きな抵抗があったはずだ。それも、彼自身が先頭に立って経典の講義など行なっているのである。

  聖徳太子の仏教崇拝を正面から攻撃した文革というのは、江戸時代、安藤昌益によって書かれた『統道真伝』のなかの一節だけであろうが、果たしてそれだけであっただろうか。思想とか宗教というものは、何らかの形で正面に立つものを傷つけずにはおかないものだ。

  そうすると、太子が註をつけたと言われる『法華経義疏』・『維摩経義疏』・『勝鬘経義疏』の三つの仏典註釈も怪しいのではないかという考えまで浮かんでくる。げんに『勝鬘経義疏』の種本が西域で見つかったということを言う学者もあらわれている。

しかし、私は、あの時代に三経の註釈をつけることのできる人物が、一人くらいわが国の思想史上に出てきてもよいと思っている。

いや、そうした人物が現われたからこそ、仏教は形式ばかりではなく内容的にも次の時代を用意することができたのである。

聖徳太子は確かにあまりにも偉大であり過ぎる。あの時代に、儒者の教えにも通じており、仏教に対してそれほどの理解を持つことができたというのは、まさに天才的といってよいものがある。

聖徳太子の伝記に、彼は十人の訴えを一度に聞いて、その一人一人に対する処置を誤らなかったということが書かれてある。十人はいささか過大であるにしても、三人や五人の訴えくらい一度に理解する能力は持っていたであろう。天才とはそのようなものである。

聖徳太子は、用明天皇と穴穂部間人皇后のあいだに生まれている。

敏速天皇の三年、即ち紀元五七四年である。蘇我馬子が用明天皇の次に立った崇峻天皇を殺害した年は、数えで十九歳であった。彼は、そのあとに立った女帝推古天皇の皇太子として政治をみることになったのである。

しかも、その馬子と上手に提携してゆかなければ朝廷の権威は保てないという政治のなかだった。仏教の崇拝ということでは馬子と手が結べても、その人閤的な関係では何か心にひっかかるものがあっただろう。事実、馬子が穴穂部皇子を伐とうとしたとき、これを極力中止させようとしたこともある。

しかし、馬子は「大義は親を顧みず」といって、あえて兵を起し、太子もまき込んで穴穂部皇子を伐った。「大義」というようなことが、政治の理念に一本の筋を入れてくるのもこの頃からであろう。

それを知っているだけに、太子の胸の中もまことに複雑なものがあったであろう。

 私は、十七条の憲法も聖徳太子の制定するところだと思っている。勿論、それは多くの人々の意見も徴されたことであろう。そのことによって、宮廷の宮人たちも自ら教育されたに違いない。この憲法の精神は、儒者思想と仏教信仰の見事な調和だ。この時代というものを考えて、恐らく最高の政治理念を示しているだろう。それだけに、後世の政治思想にも大いに影響を与えた。私は、ここにも並々ならぬ彼の力量というものをみる。わが国で哲人政治家を求めると第一に指を屈しなければならないのは、何といっても聖徳太子ということになる。


参考文献(編集部遜)

『聖徳太子と聖徳太子信仰』 小倉豊文 綜芸舎 昭和38

『聖徳太子斑鳩官の争い』 田村囲澄 中公新書 中央公論社 昭39

『聖徳太子』 福井康順 早大新鐘叢書 早稲田大学出版部 昭41

『聖徳太子の研究その仏教と政治思想』 大野達之助 吉川弘文館 昭45

『日本思想大系』(2) 家永三郎他校注 岩波書店 昭50


 


聖徳太子 -Wikipedia




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