倭建命(日本武尊)ヤマトタケルノミコト (82~111)
水野裕氏著(早稲田大学)『別冊歴史読本』
「目で見る日本の英雄百五人」2176・10創刊号 一部加筆
一人の英雄倭建命の姿は、『古事記』と『日本書紀』という、二つの古典において、全く別様の英雄に仕立てられている。どちらかが実像に近いものであり、他は虚像である部分の方が多いものでなければならない。
まず『古事記』の倭建命伝説の要点は、
- 景行天皇を命令者とし、西の熊襲、出雲建、束方十二道の伏せぬ悪人・荒振神を倭建命一人で平定した。(大和政権の征服説話)
- 倭建命の窮地を、常に救援するのは皇祖神を斎く巫としての倭姫命で、遠征の成功はすべて基本的にはその霊的感応の的中と、霊具の機能による。(呪的伝説を主体とする)
- 倭建命の死は霊的機能によって、命の守護霊の役割を果たして、安全を保証してきた霊剣を身辺から離し、伊吹の山神を言挙げしたためで、遠征完了を目前に控え、いささかの慢心故に、不慮の死を余儀なくされたとしている。(悲劇の英雄像の強調)
これに対して、『日本書紀』の所伝の要旨は、
- 名前の用字も「倭建命」ではなく「日本武尊」となる。(日本国家
が表面に打ち出されてくる)
- 倭建命の西征はつけ足りで、景行天皇の親征が主体をなす。東国遠征は倭建命が主体となり、景行天皇巡幸説話が重複的に出る。
そして東国遠征は最早荒ぶる神の征服讃は姿を消し、東夷の最強者、蝦夷征伐を主体とする。西征も東伐も共に倭建命個人の征服にはなっていず、景行天皇と二重の遠征渾になっている。(王化に反抗する蝦夷征伐)
- 倭建命の遠征は、諸将を率い、多数の軍兵を従え、歩武堂々進軍する大将軍的英雄像を顕示し、倭姫命の呪霊的庇護の説話に代わり、皇祖神廟としての伊勢神宮の神叙が表面に打ち出され、皇祖神霊と神勉の熱田神宮奉祀説が付加されるに留まり、あくまで国家的観点に立つ伝説と化し、巫の呪的説話は消滅する。(大将軍的英雄説話)
- 倭建命は自ら招いた不慮の死に際して、決して妻子を偲び、自らの運命を悲しむことなく、むしろ東国遠征を果たしたのは、一途に神恩豊威による所で、ただ復命の途次、天命忽に至り、「隙納停め難く、たゞ不面をうるえつゝ」、齢三十にして能褒野に崩ずと強調する『日本書紀』の記載には、天皇のためには自ら犠牲となって、喜び勇んで死地に赴くという忠誠に充ちた、天皇制官僚的大将軍として記され、そこにほ『古事記』に見るような「悲劇の英雄」としての哀調は伝説のどこにも見出せない。(官僚的大将軍像)
以上の如く「記紀」の描く倭建命は、同じ一個の英雄ではあっても、全く性格を異にする二人の英雄像を示している。ここに倭建命伝説の謎の解明への途が開かれているわけである。「記紀」間に見るこの凄異は何に起因するか。それは各々の任説の成立年代の差、したがって、その伝説を構成せしめた社会条件の相違が、このような差異を生み出したと考える。
古事記
『古事記』の倭建命は、幼少の頃兄を惨殺し、父天皇を畏怖させた腕力の持主だが、自ら求めて遠征に行く好戦的英雄ではなく、西征つづいて東征を命ぜられ、自らの宿命を泣いて倭姫命に愁訴したり、異郷の地での孤独の死に際し、故郷の山川に無限の憧憬を感じ、ひたぶるに残した妻子を恋慕し、心もとなくみまかっていく「悲劇の英雄」であり、「不遇の英雄」「未完成の英雄」であった。私はそれを「大連(オオムラジ)的英雄」と表現し、五世紀の仁徳王朝時代の、開拓者的、小英雄的映像として理解している。
日本書記
それに対して『日本書紀』の倭建命は、父天皇の命に易々諾々として服従するばかりでなく、西に、東に、懸軍万里の征戦も、自ら天皇に奏請して、身を挺して死地に赴くのを無上の光栄と観ずる態の英雄であり、倭姫命が有機的に果たした呪的主導的役割は、完全に抹殺され、その初めより「雄略神武」なる英雄の奇智と武力で、天皇のよき協動者として独立した好戦的大英雄となっている。私はこの『日本書紀』の描く倭建命を、「官僚的大将軍的英雄」と名づける。
「記紀」の倭建命伝説の本筋は大体同一であるにも拘らず、「大連的英雄」から「官僚的大将軍的英雄」へと変貌している。これは、この伝説の主人公である倭建命の、史実的モデルの相違によるとみる。すなわち前者は、五世紀末の雄略天皇をモデルとして、後者は壬申の乱における高市皇子をモデルとして、構成されたものだと考える。
『古事記』の伝承は、倭姫命の呪的霊能を活用していることからも、古いこの伝説の原形を保存しているが、その『古事記』の伝説の原形を、七世紀の壬申の乱を念頭において、その乱の立役者である高市皇子をモデルとして改編して収録したのが『日本書紀』の伝説であり、両者間に見る英雄像の差異は、そのモデル像の相違に起因するというわけである。
したがって、倭建命伝説の原像は、『古事記』に見る五世紀の雄略天皇をモデルとして構成された伝説であり、『日本書紀』の編纂に際して、その英雄像を、壬申の乱における、高市皇子をモデルとして改作したのが、『日本書紀』の倭建命である。故に倭建命伝説は、雄略天皇を伝説の主人公として、五世紀末か、六世紀初頭に構成されたものであると考えるが、それを雄略天皇とせず、景行天皇の御代の英雄として位置せしめたのは、上世加上の思考によるものである。
私の王朝交替説では、景行天皇の実在を否認するので、史実的には、雄略天皇に他ならない倭建命の伝説を基に加上して、景行天皇をつくり出したと考える。倭建命が雄略天皇であることは、雄略天皇が『末書』の「倭王武」=「倭武」であり、『常陸国風土記』が倭建命を「倭武天皇」と記していることからも首肯できる。故に私は、倭建命伝説をもって雄略天皇を表わす英雄伝説とし、それを五世紀の史実追求の有力な史料としたいと考えている。尚私のこの考説の詳細については、拙稿「倭建命と倭武天皇」(拙著『日本古代の民族と国家』所収)を参照されたい。
口参考文献(編集部選)
『やまと・たける』藤間生大 角川新書 角川書店 昭33
『日本武尊』 上田正昭 人物叢書 吉川弘文館 昭35
『日本神話』 川副武胤 読売新聞社 昭46
『日本神話』 上田正昭 岩波新書 岩波書店 昭49
『日本古代の民族と国家』 水野祐 大和書房 昭50