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英雄の伝記 卑弥呼(ひみこ)

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英雄の伝記 卑弥呼(ひみこ)
 (生没年不詳)
 
佐伯有清氏著(北海道大学)『別冊歴史読本』
「目で見る日本の英雄百五人」217610創刊号 一部加筆
 
 邪馬台国の女王、卑弥呼が邪馬台国連合傘下の国ぐにの王たちによって、王の中の王にえらばれたのは、二世紀の後半、倭国の大乱がきっかけとなっていた。卑弥呼は王となると、人びとの前に姿をみせるようなことはなかった。
 そうした卑弥呼の姿を『魏志倭人伝』は、「王と為りしより以来、見る有る者の少なく」と描いている。また倭人伝には、「唯、男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す」とあって、卑弥呼が、ひとりひっそりと宮室の奥深くに閉じこもっていたことを間接的にうかがわせてくれる。なぜ卑弥呼は、宮室に閉じこもっていたのであろうか。かつて彼女は、英雄時代の英雄のひとりとみなされたことがあった。卑弥呼が、もし英雄時代の英雄であったならば、彼女が人びととは隔離されたところで生活するのはふさわしくない。英雄時代の英雄は、人びとの先頭に立って戦闘もし狩猟もするという活気にみちた暮しをしていたからである。
卑弥呼のように隔離された生活をしていた王は、原始的国家の司祭王に多い。アフリカのジンバブウエの王がそうであった。「一般臣民は王の戸をきくことは許されていても、王の姿を見ることはできなかった」と、その王についての記録は語っている。またボルヌーの王は、「半神的な噂敬を与えられていた。彼は大がかりな儀式と厳蒐な隔離の中で暮し、臣民の前には、きわめて稀に、荘重なやり方でしか姿を現わさなかったといわれている。「大がかりな儀式と厳重な隔離の中で」の暮しぶりなど、まさに倭人伝の「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す」とある記事を彷彿させるではないか。この倭人伝の記事は、「唯、男子一人有り、飲食を給し」の記事につづいてみえるものであることは、いうまでもない。
 となると、卑弥呼は原始的国家の司祭王であったと、その性格を規定することができる。したがって、倭人伝の「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」という、卑弥呼についての記載も生き生きとしてくる。
 倭人伝にみえるこの鬼道を、「邪法」「魔法」という一般名詞としてとらえないで、道教上の一派である五斗米道に属する張魯が創始した「鬼道」と解し、卑弥呼の時代に移入されたものとする新説がある。この説に立つと、倭人伝の「王と為りしより以来、見る有る者の少く」が都合の悪い記載となってくる。だからこの論者は、「宮殿の奥深くに住み、めったに人に会わないというごときは、神性を印象づけるために、一般的な巫には普通の表現としか思われない」と述べて、卑弥呼の姿や、王としての性格をとらえるのに重要な手がかりとなる倭人伝の記載を捨ててしまうのである。
 いったいに信仰や宗教は保守的なものである。はたして当時、中国で流行していた「鬼道」がただちに移入されたであろうか。倭人伝にいう鬼道は、やほり一般名詞であって、呪術性の濃い原始的な宗教であったと解しておいてよいであろう。
 ただし卑弥呼は宮殿の奥深くで暮し、人びととは隔離された生活を送っていたとはいっても、倭人伝に「倭の女王、大夫難升米等を過して郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む」とあるように、魏の国に対して窓を開いた開明的な王だったのである。そして「親魏倭王(シンギワオウ)」の爵号と、「金印紫綬」を授けられ、銅鏡百枚など数かずの品物を魏の皇帝から贈られるというような国際的関係をたもちつづけていたのである。こうした国際交流をとおして新しい文物が移入され、邪馬台国連合に大きな影響をもたらしたことは察知できる。
 しかし、この卑弥呼の開明性は、彼女の主としての立場からでたものではなく、邪馬台国連合が当時おかれていた東アジア世界の中での種々な条件にもとづくものであったとみなければならない。そしてその国際交流の主導的な役割を担ったのが、卑弥呼を「佐(タス)けて国を治(オサ)」めていた「男弟」であったはずである。
「男弟」は、卑弥呼が司祭王であったのとは違って、現実的な政治を執った王であったと考えられる。原始的な国家が発展していくと、王の仕事は聖的な面と、俗的な面とで区別せざるをえなくなってくる。やがて古代の玉は俗的な面を全面的に握って、強大な権力をほしいままにふるうが、邪馬台国の時代には、まだ俗的な面が、聖的なものを圧倒するまでにはいたらず、俗事担当の王が、聖なる王を補佐するという段階であったといえる。
けれども、聖なる王、卑弥呼を補佐する俗なる王の出現は、邪馬台国連合が、いつまでも古い原始的国家の殻をかぶっていなかった証拠である。おそらく邪馬台国連合の成立は倭国の大乱ののち、卑弥呼の女王共立と同時であったろう。そのときに、より進んだ統治組織もつくられたに違いない。その一つに問題の「一大率」があったと考えられる。倭人伝によれば、「一大率」は、「女王固より以北」に置かれたもので、「諸国を検察」するのがその任務であった。
邪馬台国に置かれていた官は、伊支鳥(イキマ)・弥馬升(ミマショウ)・弥馬獲支(ミマカクキ)・奴佳(ヌカ)であって、日本の古語らしい官名である。ところが「一大率」は、どうみても漢語である。そこでこの異質な官は、親の命令を受けた
帯方郡が、倭国へ派遣した軍政官であろうとする新説がある。
 これは興味深い説で為るが、邪馬台国連合が、司祭王卑弥呼のもとで新しく設置した官とみなせば、その官に漢語にもとづく名称をつけたと解せられないことはない。邪馬台国連合の性格の新しさ、古い痕を破った姿が、この名称にもうかがわれるといえるであろう。
「一大率」は、卑弥呼の統治下の外来語の第一号であったのである。外来語を採用する邪馬台国連合の新しさと、卑弥呼の人物像にまとわりつく古さ、その新旧対照の妙が、邪馬台国とその時代の特色であったというべきであろうか。
 
 □参考文献(編集部選)
 『卑弥呼と倭王倭人伝・記紀の再検討』 阿部秀雄 講談社 昭46
『戦後の邪馬台国』(研究史) 佐伯有清 蕾川弘文舘 昭47
 『邪馬台国の謎を探る』 松本清張 平凡社 昭47
 『女王卑弥呼と倭の五王』 小林幹男 評論社 昭47
 『卑弥呼は神功皇后である』 市村其三郎 新人物往来社 昭47
 
読後感 筆者
 邪馬台国についてはその著作物や類似遺跡をもって論じる書も多いが、未だに定かではない。九州や奈良以外にも全国に邪馬台国比定地が散乱して、一層謎が深まるばかりである。また魏志倭人伝を始めこの頃の日本を記したものは日本にはない。またその読み方で、国などの比定も様々で、愛好者を混乱させる。卑弥呼と天照を同一人物として捉えて書している著名な方の説もあるが、確定は出来ない。一頃は吉野ケ里遺跡が卑弥呼居城とする説もあったが、今は沈静化している。
 ここでは魏の国を訪問した当時の日本のさまざまな技術や折衝言葉などが興味をそそる。
 私も様々な本を読んだが、定説はなく、永遠の謎として今後も推移していくと思われる。先生の切は諸説の一つである。

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