良妻賢母 藤原薬子(くすこ)藤原縄主(ただしぬ)
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
参議藤原縄主(ただぬし)の妻である薬子が、年若い皇太子の安殿親王と道ならぬ恋に堕ちたのは、延暦年間(七八二~八〇六)の後期のことだった。親王は、入内した妃に付き添う母の薬子に想いを寄せた。また、薬子も三男二女の子供がいる人妻の背いた求愛を受け入れてしまったのだ。
当時、薬子の父である中納言藤原種継暗殺事件に遷座させられ、憤死した早良(さがら)親王の怨霊に親王はおびえていた。また、この恐怖から、持病の風病(神経症)も悪化していた可能性が高い。不安に苛まれていた親王は、年上の薬子に心の拠所を見出したらしく、彼女を春宮房宣旨という最上級の女官として過した。
だが、これを知った桓武天皇は、「人の道に背くことである」と激怒し、薬子を宮中から追放する。
延暦二十五年(八〇六)に桓武天皇が崩御すると、親王は即位して平城天皇となり、宮中へ薬子を招いて位につけた。その後、官庁の統廃合や財政再建等の行政改革を、矢つぎ早に断行した天皇の背後には薬子がいた。愛人の薬子が精神的な支柱になっていたからこそ、病弱な天皇は政務に邁進することができたのだ。
薬子は大宰帥(ダザイフノソチ)として遠ざけられた夫から見ると悪妻だが、天皇にとっては頼もしい良妻だったに相違ない。
だが、天皇の風病はしだいに重くなり、ついには執政の責に耐えず、大同四年(八〇九)に弟の嵯峨天皇へ譲位、上皇となって薬子ら側近を率いて旧都の平城京へ移る。朝廷が二分された状態で、薬子は上皇の復位と平城遷都を望み、挙兵を企てた。だが、天皇の軍勢に機先を制されて上皇は出家、薬子は服毒により生涯を閉じる。
この「薬子の変」については、嵯峨天皇の側を正義とするために、都合良く書き換えられた事件だとする説もある。上皇側の軍備は粗末であり、挙兵の意志が薬子にあったと断定することはできないのだ。(水沢龍樹氏著)