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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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良妻賢母 大納言藤原道綱の母

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良妻賢母 大納言藤原道綱の母
『歴史読本』日本の良妻賢母「生きた女性人物事典」一部加筆
 
大納言藤原道綱の母は「天下三美人」の一人に数えられ、『蜉蝣(カゲロウ)日記』の著者として知られる才女だが、名は伝えられていない。受領階級の家に生まれた道綱の母は、十代後半と思われる天暦八年(九五四)に右大臣藤原師輔の三男兼家と結婚した。新婚当初、兼家は足しげく彼女の屋敷を訪ねるが、道綱が生まれる翌年の秋頃から、「町小路の女」へ気を移した。
 嫉妬に焦がれた道綱母は
「嘆きつつ独り寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る」
(あなたが訪れないことを嘆きながら独り寝をする夜は、どれほど夜明けが遅く感じられるか、おわかりになりますか)
と哀切な歌を送るが、兼家は意に返さず「町小路の女」のもとへ通い続ける。
 兼家は生涯のうちに、少なくとも九人の妻を持った。
絶世の美女である道綱母も、婿が複数の妻を訪ねる、妻問婚(ツマドイコン)の宿命から逃れることはできなかったのだ。
 そのためこの夫婦の間には、しばしば波風が立った。道綱母は声を荒げ、つれない兼家と大喧嘩をしたことがある。また、あてつけに山寺へ籠もり、兼家を慌てさせたこともあった。
 だが、二人の絆は保たれた。天延元年(九七三)一月、兼家が頻繁に訪れる奇妙さを、道綱母は日記に書き残している。当時、兼家はライバルの兄兼通に出世争いで差をつけられ、落胆していた。傷心の兼家は他の妻ではなく、彼女に安らぎを求め、しばらく通い続けたのだ。
 また、その翌年、太政大臣に栄進した兼通から道綱母へ恋文が届くが、彼女は取り合わなかった。たまにしか来ない兼家を見限り、今をときめく兼通を夫に選ぶ道もあった。男女の関係が大らかだった妻問婚の時代には、そのような選択も許されていた。
 だが、道綱母は兼家に操を立てたのだ。彼女は貞淑な妻として生き、一人息子の道綱を公卿に育て上げて、還暦の頃に世を去った。(水沢龍樹氏著)

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