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勤番がもたらした山梨の文化  

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勤番がもたらした山梨の文化(東都山梨新聞主幹 古屋権一氏著「ザ山梨  武田信玄と甲斐路」読売新聞社刊S62所収記事)

 甲州勤番はふつう甲府勤番ともいい、柳沢吉里(吉保の子)が、大和郡山に転封になった直後の享保九年(一七二四)八月からの、幕府の直轄支配を指すものである。
 大手、山手二名の支配頭に三千石以上の旗本(その殆どが問題を起こして「小普請」入り)を任じて役知千石を給し、各支配下に組頭二名勤番士百名、与力十騎、同心五十名を置いた。組頭以下、みな五百石から二百俵までの旗本であった。そして、この組織は老中の支配に属し、甲府城の警備、甲府市内の民政を担当した。一般の郷村には代官所が置かれ、代官が民政を行なった。代官にはお日見得以上の下級旗本を任じ、これは勘定奉行の下に属した。代官支配の村々は次のようであった。
 甲府代官所(甲府長禅寺前)管轄百六十四力村。外六十七力村。
 石和代官所(入代郡石和宿)管轄二百五カ村。外二十二力村。郡内(都留郡)の谷村宿に出張所を置く。
 市川代官所(入代郡市川大門宿)外九力村。
 代官支配はこのようなものであった。代官の下には手付、手代があり、その下には代官所雇いの捕吏がいた。手代は百石以下の御家人であったが、手代は代官所の侍待遇の属吏であり、代官からふつう三十俵、二人扶持が与えられた。
 この代官支配のほかに、徳川一門の田安(田安家は山梨郡一丁田中村)、一橋(一橋家は巨麻郡宇津谷村(のちに同郡河原部村))、清水(水家は山梨郡岩下村)・の三家が、各三万石の私領を持ち、それぞれ陣屋を設けて民政にあたった。その構成は複雑に入り組んだ支配系統だった。
<割注> 私は山口素堂の足跡をしのんで歩いたが甲府尊体寺の素堂縁の墓所を調べたときに、その墓石の中に甲府勤番士数名の名前を発見したことがある。
 勤番士は初期の頃は、山流しといって甲府勤番を嫌悪したものだったが、定住するにしたがって落ちつき、江戸の文化を甲府に持ち込み、甲府特有な文化が芽吹くようになった。支配頭は二、三年で交替したが、勤番士はほとんど交替しなかった。このことは彼らを土地に慣れさせ、二世は甲州を郷里とする″甲府侍″になった。

 甲府勤番(こうふきんばん)

 甲府藩廃止後に設けた江戸幕府の職名。老中の配下に属し、甲府城の守護と府中の政務を重たる任務とした01724(享保9)年7月、甲斐の幕府直轄地への編入に伴い設置。これは、八代将徳川吉宗の享保(1716-1735)改革の一環としての幕府財政の基礎である天領拡大政策の一つとして実施され、甲府藩主柳沢吉里の大和郡山転封と一連の施策である。この長を「甲府動番支配」といい、山手と大手に1人ずつ置かれ、配下に勤番土が200人(内組頭2人)、与力20人、同心知人が配置された。動番支配・新香土は、幕府小普請組から多く任命された。その初期に大目付などに栄進した者もあったが、ほとんどは動番支配を最後として幕府の要職を退き、一説には甲府勅書支配に任ぜられることを「山流し」といい、あまり歓迎されなかったという。

甲府勤番支配役知】
 
 甲府勤番支配は遠国奉行の筆頭としての歴にあり、高3000石と定められ、そのほかに役料1000石が国内において与えられた(小佐手村、上塩後村など)。一般の動番土は、高500石から200石取りまでの者が任ぜられた。1867(慶応3)年6月、甲府動番支配は、甲府小普請支配となるが、この間、甲府学問所を設置した滝川出羽守利、これを「徽典館」とした酒井安房守忠誨(ただのり)・浅野中務少輔(衤乍)、「甲斐国志」を編集集した松平伊予守定能ら甲斐に文化的影響を与えた甲府動番支配も少なくない。
<「山梨百科事典」山梨日日新聞社 斎藤典男氏著>

 彼らの中から学者、風流人なども生まれ、また、土地の者の間からも、同様な文化人が現われるようになった。
 文化初年に在任した大手支配頭松平定能は、この気風に乗って彪大で貴重な『甲斐国志』を地方史家の協力を得て完成した。また勤王思想家として有名な山県大弐は与力の家に生まれている。
 江戸の学者や文人も甲府に遊ぶようになり、食文化も江戸前の影響をうけて発達し、鮑(あわび)の煮貝などの名物を生んだ。さらに、芝居、浄瑠璃などが流行し、祭りも盛大に行なわれた。ことに芝居は盛んで、江戸歌舞伎も、甲府で成功すると江戸での成功間違いないと言われた。
 
 明和四年(一七六七)の坂田藤十郎、市川小団次の入甲をはじめ、坂東彦三郎、瀬川菊之丞、松本幸四郎、坂東三津五郎、沢村源之助、坂東蓑助らが数回入甲して、いずれも若松町の亀屋座で興行を打った。七代目市川団十郎が、やはり亀屋座で初顔見世を行なって、江戸での成功疑いなし、と太鼓判を押されたのは文政五年(一八二二)のことであった。

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