靖国神社と軍国主義
その神社信仰の系譜 (「歴史地理教育」138 1967・1 大江志乃夫氏著)
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-ybb&p=%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BF%97%E4%B9%83%E5%A4%AB%E6%B0%8F&ei=UTF-8
慰霊の習俗と軍団主義
靖国神社の由来である慰霊の習俗である御霊信仰とはどんなものであろうか。民俗学者桜井徳太郎氏の調査報告によれば、伊予宇和島地方の御霊信仰の例として、
① 藩の領民の頁租軽減につとめた重臣山家清兵衛が反対派に閻討され、その怨霊が夜な夜な出没するので慰霊のためにたてられた和霊神社、
② 藩の圧政に抗して犠牲となった義農の霊をなぐさめる「エソのトの焼餅」祭、
③ 長宗我部氏に滅亡させられた新田氏一族の怨霊が長宗我部の軍船をことごとく嵐で海中に覆滅させたたたりを恐れる新田神社、
④ おなじく長宗我部氏に亡ばされた一条氏の亡霊が海上に時化(しけ)をもたらし漁民を苦しめたので祭られた一条宮様などが紹介されている。
この信仰に共通するのは、対象が戦争または無実の罪のために非業の死をとげた亡霊であること、u榊 したがって、この世に怨みを残した怨霊がさまざまの怪異な力をもってたたること、付.この亡霊を祭ることによってたたりを免かれることができるだけでなく、亡霊のもつ怪異な力に保護されてさまざまの恩恵をうけることである。
今も、こうした僻地に残る御霊信仰は、江戸時代にはひろく民衆の問にひろがっていた。たとえは、歌舞位に登場するスーパーマンたちが、曽我五郎、鎌倉権五郎、大館左馬五郎、竹抜五郎から、花川戸の助六は世をしのぶ仮の名で実は曾我の五郎というところまで、多くがゴロウであり、御霊がゴロウになまった御霊信仰の舞台化であることはすでに知られている。
こうみて来ると、戦争によって罪なく死んだ戦死者の亡霊を慰め、そのたたりを防ぎ、亡霊のスーパーマソ的力を逆にたたりから「護国の鬼」に転ずるという靖国神社の信仰形態は、御霊信仰そっくりであるということになる。それなら、古くから日本の民衆に伝わる宗教・信仰に根ざしたものであるから、靖国神社はよいものではないか、ということになりそうなものであるが、そうではない。明治政府は、民間信仰の形式だけをそっくりとりいれて、その内容を一八○度かえてしまったのであった。第一に、在米の御霊信仰は、報いられなかった死者の亡霊を慰めるためのものであるから、本来をいえば、官軍の戦死者だけでなく、むしろ敗北者である幕府がわの戦死者の亡霊の方が大事だったはずである。
第二に、靖国神社に祀られた「護国の鬼」は祀られることによって、たたりが消滅するはずであるのに、そうでないかのように宣伝された。つまり、日清戦争の戦死者の霊は、三国干渉の結果、浮かばれないことになり、この亡霊を慰めるためには日露戦争が必要とされた。つまり、軍歌の一節にあったように、「血汐と交えし遼東に、さまよう霊の叫ぶとき」、遼東半島を日本の領土としないかぎりは、亡霊が慰められないという発想である。日露戦争が終れば満蒙の地で死んだ亡霊は靖国神社に祀られるだけでなく、満蒙の地をさまよいつづける。「満豪にさまよう一〇万の生霊」を慰めるためにというのが満州事変に国民を動員するスロ-ガンとされた。
一方では靖国神社に祀られて神となり、一方ではまださまよう「生霊」(このばあいセイレイと読まされていたが本来は生身のまま怨霊と化したもののいみである)であるという使いわけがおこなわれ、一つの戦争の犠牲をつぐなうためには、より大きな次の戦争が必要であるという方向にむけられたのである。この二面性は、一面では戦死者が神に祀られることによってのこされた肉親に満足感をあたえるとともに、もう一面では戦死者の肉親の怨念が、戦争や戦争をひきおこした国家にむけられることを防ぎ、戦死者の流血の場所を日本が確保することへの欲望へとかりたてるという作用をしめした。
御霊信仰がもたらす本来のスーパーマン的恩恵は、その怪異な力が、本来の怨念とはまったぐちがった、たとえば悪疫を防ぐ力とは豊作・豊漁をもたらす力として作用することによると信じられていた。ところが、本来の怨念の晴らすことだけに有効であり、本来の怨念を晴らすことを要求する靖国神社信仰は、素朴な、自然の力ヘの畏怖と信頼が交錯する民間信仰とは、その形だけを似せて、まったく別なものに作為的に変造された信仰でしかない。しかも、形式つけるための道具とされて来た靖国神社で、はたして本当に戦争のを伝統にかり、形式で民衆の心をひきよせ、実質は戦争のつぐない犠牲となった人々の魂は慰さめられるのであろうか。はつぎのより大きな戦争でのみ可能であるという心情を国民に植えつけるための道具とされてきた靖国神社で本当に戦争の犠牲となった人々の魂は慰められるのであろうか。(「国民文化」92号より転載)
その神社信仰の系譜 (「歴史地理教育」138 1967・1 大江志乃夫氏著)
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-ybb&p=%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BF%97%E4%B9%83%E5%A4%AB%E6%B0%8F&ei=UTF-8
慰霊の習俗と軍団主義
靖国神社の由来である慰霊の習俗である御霊信仰とはどんなものであろうか。民俗学者桜井徳太郎氏の調査報告によれば、伊予宇和島地方の御霊信仰の例として、
① 藩の領民の頁租軽減につとめた重臣山家清兵衛が反対派に閻討され、その怨霊が夜な夜な出没するので慰霊のためにたてられた和霊神社、
② 藩の圧政に抗して犠牲となった義農の霊をなぐさめる「エソのトの焼餅」祭、
③ 長宗我部氏に滅亡させられた新田氏一族の怨霊が長宗我部の軍船をことごとく嵐で海中に覆滅させたたたりを恐れる新田神社、
④ おなじく長宗我部氏に亡ばされた一条氏の亡霊が海上に時化(しけ)をもたらし漁民を苦しめたので祭られた一条宮様などが紹介されている。
この信仰に共通するのは、対象が戦争または無実の罪のために非業の死をとげた亡霊であること、u榊 したがって、この世に怨みを残した怨霊がさまざまの怪異な力をもってたたること、付.この亡霊を祭ることによってたたりを免かれることができるだけでなく、亡霊のもつ怪異な力に保護されてさまざまの恩恵をうけることである。
今も、こうした僻地に残る御霊信仰は、江戸時代にはひろく民衆の問にひろがっていた。たとえは、歌舞位に登場するスーパーマンたちが、曽我五郎、鎌倉権五郎、大館左馬五郎、竹抜五郎から、花川戸の助六は世をしのぶ仮の名で実は曾我の五郎というところまで、多くがゴロウであり、御霊がゴロウになまった御霊信仰の舞台化であることはすでに知られている。
こうみて来ると、戦争によって罪なく死んだ戦死者の亡霊を慰め、そのたたりを防ぎ、亡霊のスーパーマソ的力を逆にたたりから「護国の鬼」に転ずるという靖国神社の信仰形態は、御霊信仰そっくりであるということになる。それなら、古くから日本の民衆に伝わる宗教・信仰に根ざしたものであるから、靖国神社はよいものではないか、ということになりそうなものであるが、そうではない。明治政府は、民間信仰の形式だけをそっくりとりいれて、その内容を一八○度かえてしまったのであった。第一に、在米の御霊信仰は、報いられなかった死者の亡霊を慰めるためのものであるから、本来をいえば、官軍の戦死者だけでなく、むしろ敗北者である幕府がわの戦死者の亡霊の方が大事だったはずである。
第二に、靖国神社に祀られた「護国の鬼」は祀られることによって、たたりが消滅するはずであるのに、そうでないかのように宣伝された。つまり、日清戦争の戦死者の霊は、三国干渉の結果、浮かばれないことになり、この亡霊を慰めるためには日露戦争が必要とされた。つまり、軍歌の一節にあったように、「血汐と交えし遼東に、さまよう霊の叫ぶとき」、遼東半島を日本の領土としないかぎりは、亡霊が慰められないという発想である。日露戦争が終れば満蒙の地で死んだ亡霊は靖国神社に祀られるだけでなく、満蒙の地をさまよいつづける。「満豪にさまよう一〇万の生霊」を慰めるためにというのが満州事変に国民を動員するスロ-ガンとされた。
一方では靖国神社に祀られて神となり、一方ではまださまよう「生霊」(このばあいセイレイと読まされていたが本来は生身のまま怨霊と化したもののいみである)であるという使いわけがおこなわれ、一つの戦争の犠牲をつぐなうためには、より大きな次の戦争が必要であるという方向にむけられたのである。この二面性は、一面では戦死者が神に祀られることによってのこされた肉親に満足感をあたえるとともに、もう一面では戦死者の肉親の怨念が、戦争や戦争をひきおこした国家にむけられることを防ぎ、戦死者の流血の場所を日本が確保することへの欲望へとかりたてるという作用をしめした。
御霊信仰がもたらす本来のスーパーマン的恩恵は、その怪異な力が、本来の怨念とはまったぐちがった、たとえば悪疫を防ぐ力とは豊作・豊漁をもたらす力として作用することによると信じられていた。ところが、本来の怨念の晴らすことだけに有効であり、本来の怨念を晴らすことを要求する靖国神社信仰は、素朴な、自然の力ヘの畏怖と信頼が交錯する民間信仰とは、その形だけを似せて、まったく別なものに作為的に変造された信仰でしかない。しかも、形式つけるための道具とされて来た靖国神社で、はたして本当に戦争のを伝統にかり、形式で民衆の心をひきよせ、実質は戦争のつぐない犠牲となった人々の魂は慰さめられるのであろうか。はつぎのより大きな戦争でのみ可能であるという心情を国民に植えつけるための道具とされてきた靖国神社で本当に戦争の犠牲となった人々の魂は慰められるのであろうか。(「国民文化」92号より転載)