侠客 西保の周太
小田切七内氏著 一部加筆
西保の周太(正しくほ周太郎)は、寛政五年(1793)三月、峡東旧西保中村上の芦沢組に生れている。
父を竹川義邦と云い、周太はその長男として生れた。
周太は子供の頃から気持ちがさわやかで、物覚えがよく、身ごなしが機敏で近隣の人だちから神童と呼ばれ、学問を西源寺の真禅和尚に学び、その上達ぶりには、師の真禅も舌を巻いたほどであったという。
芦沢組には有名の笠石神社(現、牧丘町文化財)があるが、周太はこの境内木立の間を練武の場として、暇さえ有れば一人剣道に勤しんだという。
竹川家はこの郷における旧家で、田地も相当保有しており、両親は周太に百姓わざに身を入れて、家督を継ぐように云って聞かせるのであったが、周太は百姓仕事をよそに、好きな剣道に励むのであった。
ある年のことである。
御岳の金桜神社にお祭りの村人に付いて行った周太が夜になっても帰らないので村中が大騒ぎをした。ところが翌朝、周太は晴れはれした顔で帰って来た。
見ると手のヒラに火傷(やけど)をしている。
驚いた一同がそのわけを聞くと、
「これかェ、こりやあ何んでもないさ、御岳の金桜神社にお百度を踏めば、何んでも聞いて下さるとのことだから、一晩中ロ-ソクをともして御百度を踏んできたのさ」
と云ってけろりとしているのである。
「いったい何をそんなに御願いしてきた」と、みんなが問うたところ、平然として
「庵ア何がなんでも侠客になりたいんだ、甲州一番の侠客になって人助けをしたいからさ」と答えた。
土臭い百姓家の子供が侠客になりたい。それも甲州一の侠客になって人助けをしたい、これにはみんな驚いたという。
このように、周太郎が侠客になりたいと思ふようになったのには、次のようなわけがある。
当時この甲州は、幕府直轄の天領区と、田安領に分かれ、中央から代官が派遣されて領地を支配していた。
これは、人心気鋭の甲州人が結束することを恐れ、尚また、大名間に、信玄の治めた甲州の人心を掌握するには智謀を要するので、甲州位封を厭う傾向がみられたからで、領地を分断して行政の対立をほかり、民衆の不統一を狙いとした徳川幕府の老猪なる政策であった。
従って、派遣されて来る代官や下役までが、いずれも素質の悪い人物が任命されて来るのであるから善政が行われるはずがない。役職を笠にきての威張り放題の悪政が絶えず行われていた。
代官の替るたびに条令が変り、重税が賦裸され、凶作不作に関係なく年貢米は厳しく取立てられ、使役人夫のタダ使いは頻繁となり、年柄年中(ねんがらねんじゅう)村うちに見廻りにやって来て酒食の饗応を要求するほか、妻子を江戸に残して来ての女遊びやメカケ狂いのご乱行を重ね、それに使うカネは、陣屋財政窮乏と称して、農民から搾取するのであるからたまったものではない。
弱い立場の農民は、これら代官に反抗も出来ず、唯忍従の生活を余儀なくしていた甲州政治、田安領の悪政は正に暗国政治の象徴であり、代官は民衆の敵であった。
こうした政治の社会悪が、正義感に強い周太を侠客道志願の少年としたものであろう………。
十八歳の時、代官岡部市太夫との間に衝突があった。
それは、この郷西保の漆川周辺には、古くから漆の原生林があり、良質のウルシを生産して人びとは、これを生活の足しにしていた。
この内十五樽(一樽京五升)を毎年幕府に献上し、残りを「留物=とめもの」と称して専売制としていた。
当時、ウルシは蝋(ロウ)に次ぐ貴重品で高価のものであり、陣屋の御年貢方の役人が立ち会って、売買が行われてきたものであった。
それが、三年前に代官が交替して来てから、生産者抜きで陣屋役人が仲買人を料亭に集めて、納得のいかぬ安値で価格を取り決め、高圧的に漆を集めて、業者に売り渡して仕舞うのである。
この様な、不明朗な取引制度の是正を、村人の先頭に起って周太は叫び、たまたま村内巡見に来た代官岡部市太夫に旧制度の採用を要請したが容れられず、代官と激しく云い争そいをして仕舞った。
この事件は、その後、西源寺の和尚や、村役人が仲に入って一応解決したが、釈然としないものがあり、尚また、生来の侠客道研修の念止み難く、師の真禅和尚に頼んで父義邦を説得し、八年間の約束で初族に出た。
それは、文化三年(1806)二月初めのことであったという。
周太は先ず関東に向かい、武州小金井村の大侠秋川の常吉を頼り、常吉のもとで二年間、侠客道を身に付け処世の術を習った。
この武州多摩郡は、古くから武術の盛んな土地柄で、農家の中にも道場へ通う著もあり、自宅の庭に、道場まで建てようとする熱心な若者達も居た。
常吉の身内にも道場へ通う者が居り、周太もこれらの者と一緒に道場に通い剣の道(神道無念流)を極めた。
付記(後年この多摩郡からは、新選組隊長近藤勇や土方歳三の外、多くの隊士を新選組に送っている。小金井村は、内藤新宿に通じる甲州街道一番の繁華街で、人馬の往来も頻繁で商家も多く、従って、公娼も置かれ、私娼もあり賭場や酒場も各所に開かれて、昼夜の別なく町はにぎわいを呈していた。
周太は、常吉の所で居候をしながら、時には土地の老舗、米商越後屋の使い走りなどして遊ぶカネを稼いだ。とも彼の地(武州)には伝わる。
周太は男前であり、気前がよいので町の人達に愛され、女たちにも人気があり、また反面これを妬(ねた)み、嫉(そね)む者もあったらしい。
ある晩周太は、宿場はずれの田んぼ道で三人の暴漢に襲われ、一人を斬り、二人を傷つけて仕舞った。それが、この土地での顔役の子弟であったために、事が面倒となり、訴訟事件にまでなったが解決がつかず、常吉の計らいで上州下仁田村の貸元、大庭(おおば)の玉五郎(常吉の兄弟分)の所へ身を隠すこととなり、常吉の添書を持って夜分密かに上州に向った。
この下仁田村の玉五郎の所で、その後の六年間を過ごし、玉五郎一家の身内として持って生れた天棄を発揮し、上州一円に名を馳せ男を磨き、生死の巷を往来して、八年後に帰ってきた時には数名子分を連れて帰ってきた
という。
村に帰った周大の日常はじつに立派で、世間一般のやくざ渡世の感幣に染まらず、強きを挫き、弱きを援ける真(まこと)の侠客、正義公論・勧善懲悪を念頭に行動したといわれる。
帥の其禅和尚は、この周太一家の仁侠・真実一路の歩みを讃え「其の家」(しんの家=まことの家の意)の一点を与えている。以来この家は真家の名称で呼ばれて、今に到っている。
周太は腕は立つし度胸はよし、人の面倒見も良いのでこの郷、橋上ミ一帯の人びとに纂われ、二百人余の子分を持ち、幕府派遣の腐敗代官の悪政を糾弾し、収賄汚職や、百姓いじめに対抗して広く民衆の権利と利益を護り、郷の治安と秩序に尽痺した。(作家今川徳三先生はその書『日本侠客百伝』(秋葉書房発行)に「西保の周太を以って甲州侠客の草分け」と書いている。)
付記(その後この甲州には、竹居の吃安・津向の文吉・祐天仙之助、勤王侠客黒駒勝蔵など生れている)
この周大の偉いことに、決して高ぶらず頭が低く、人を敬い、仁義が有名に丁寧であったという。
この仁義の丁寧が、周大のその人生を早めた、とも云うが、周大の人間像を語るいくつかのエピソードの中のひとつに、次のような話しが里に残っている。
それは、暑い盛りの真夏のある日のことである。
水害で壊れた道普請をして居た坂下万力筋の、桑戸村の人びとの所へ差しかかった周大の一行は、焼けつく暑さの中を皆一様に三度笠を取って一礼し、
「みなの衆、お暑いさなか、まことに御苦労さまでございます。西保の周太郎でござんす、石和宿まで参りやす、通させていただきやす」
と丁寧に仁義を述べたうえ、更に又丁寧に一礼して石和に向って行ったと云い、続く子分連の態度もみな立派であったという。
肩で風を切り横柄に威張って通る一般世間のヤクザ連中とは異なる、周太一行のその仁義の丁寧に、村人たちは感動して「西保の周太親分は、たいした親分だ」と、称讃したという。
この様に周太は実に仁義が丁寧であり、また彼は芸能を好み、上州で習い覚えた民囁や、歌舞伎芝居を村人に伝え、更に子分達や、同好の人々と共に西保鳥谷場の「西源寺の回し舞台」に毎年これを上演した。
註(これが県下にいう西保歌舞伎の元という)
さらに周太は、途絶えていた郷の奇祭「お飾り」これは各人が等身大の歌舞伎人形を造り、一ケ所に飾って観賞する民衆芸術で、これも周太によって復元している。
ついで乍ら、この「お飾り」の由来であるが、これは昔、南北朝の戦に減れた南朝方の藤原氏の一族が、この西保郷にのがれて来た時一行に付いてきた、
木地師幸吉が初めた南朝吉野の里の民族芸能といわれている。
これも周太によって復元し、以来これは「鳥谷原のお飾り」として伝わり、筆者の少年期頃まではあった。
この他周太は、自費を投じて各所に農道を作り私橋を架けて農耕の便を良くし、人びとに開墾を奨め、上州から持ち帰りたる茜蕩(こんにゃく)の種子を分かち与えて、これが殖産を計ったのであった。
付記(後年この郷、牧丘町が上州下仁田に次ぐ、蒟蒻の生産地としての名声を博し、貴重な金換作物として、永く地域を潤したその源は、実にこの周大の功績であることは、郷の古老連の語り知るところである)
以上のように周太は、仁侠に生きたほか、郷土芸能育ての親、地場産業振興の恩人、農道開発の篤志家であり正に偉大な、時代の先覚者であった。
そして又、この周太は、じつに素晴らしい美男であったことが伝わる。身長ほ五尺六寸ぐらい、体重は廿三貫余、堂々たる体格で音声もよく自然と備わる親分としての貫録をもち、目元涼しく口元締り、色白で、しも膨れした顔立ちが、常に微笑を失わず、漆黒の両繋(びん)艶やかに落とし差しの一刀が、凛とした気品を添え、その風ぼうは正に画中の人、さながら錦絵を見るようで、
当時の里歌に
西保の周太は男の花よ 娘ベタ惚れ
後家立ち往生 老女ほめ句のお人柄……
と唄われたという。
この周太も惜しくも三十二歳の若さで逝った。
徳川三百年の封建政治も傾き、民衆は新らしい政治を望み、藩閥政治の転換が叫はれた頃、世界の各国には産業革命が起り、機械工業が発達して、大量に造り出した物品を売るためや、原料資材を求めるため各国は、わが国に通商貿易をせまってきた。
これがため国内は開国、鎖国の両論がはげしく対立して殺伐たる様相を呈し、幕府はこれら内外の対応策に苦慮していた。
一方、農村では三年続きの冷害で不作が続き、天明に次ぐ大飢饉で民衆は飢に泣き、物価は高騰し、各地に米騒動や、百姓一挺が勃発するはか、斬り取り強盗が横行するなど、世上は正に混乱その極に達していた。
ために幕府は、これら農村の治安維持対策にも腐心し、その一ツでもある地方ヤクザの軌轢(あつれき)侠客博徒間のナワ張り争いの悪幣を解消すべく、これが和解を推進したものである。
天領区の石和陣屋の筆法にならい、田安領の田中陣屋
でも代官仲介のもとに「手打ち式」が石森村(現、山梨市石森)の蓮法院におこなわれた。当日集まったのは、歌田の佐太郎、石森の常助、三井の字吉、西保の周太郎の四人であった。
定刻に代官が座敷に通り、次いで四名の者も席に着き、形通り代官の説示めいた長談議があり、悲劇はその直後にあったという。
代官の説示が終り一同が、一応これを了承して頭を下げ、周太が丁寧に頭を下げたその瞬間、隣りに座って居た石森の常助が、突然隠し持った短刀を振るって周大の背に切り付けた。
不意を打たれたが周太はひるまず、すっくと起って常助を突きとばし、一度は常助を組敷いたというが、何分急所の深傷であり、また入室前刃物預け(帯剣禁止)の掟を守り、身に寸鉄帯びざる周太は不利で〝無念…〃の一語を残してこの寺座敷に斃れて逝ったという。
これは代官内海多次郎(うつみたじろう=後世名題の悪代官)の策謀?とも云われている。
時に周太郎は、男盛りの三十二歳であり、桜花散る四月半ばの十五日のことであったと伝わる。
周大の最期を嘆賞した真禅和尚の追悼歌
刺されても猛然と起つ男振り さすが周太と人は云うなり
のうたが、周大の最期を物語っている。
墓が中村上の長松山西源寺(住職若月梅光師)境内に残っており
法号 秀林院虎嶽玄猛居士
文政四年四月十五日投 俗名周太郎
とある。
仁侠周大の最期は世の人の涙を誘い、その死を惜しまぬ者はなかったという。
- 追記 -
周太刺殺直後、子分達の襲撃を怖(おそ)れた常助を朱弥檀の下に隠したのは、代官内海多次郎であったことを知る人は多いが。
その翌年(文政五年)三月、田安領に人事の更迭があり、内海多次郎が代官職を解任されて江戸へ引きあげて行く途中、勝沼大善寺前にて群集に取り巻かれ、投石されて落命した後日談を知る人はすくない。