堀田正信 老中人事に怒って自滅
『三百諸侯おもしろ史話』 新井英生氏著 毎日新聞社 平成2年 一部加筆
寛永九年(一六三二)~延宝八年(一六八〇)
下総佐倉十一万石第二代藩主・上野介・改易
正信の父正盛は、三代将軍家光の老中として功績があり、しかも家光に殉死したいわゆる忠臣
であった。だから正信はいずれ近い時期に自分も老中に任用されるだろうと、取らぬ狸の皮算用をしていた。
ところがあにはからんや、小田原藩主の稲葉止則が老中に登用され、正信は大ショックを受けた。家の格は正信と同格、もしくはやや下といえる稲葉正則が選ばれたのは、彼が春日局の孫に当たり、有力な閏閥をもっていたからであった。しかしこういう人事問題は表立って抗議し、文句のいえることではなかったので、正信の欝憤はつのる一方だった。
やがて正信の欝憤は、幕閣で実力ナンバー・ワンと自他ともにゆるす松平信綱への憎悪と変っていった。正信と信綱のあいだに特にこれといった確執は何もなかったのだが、信綱は知恵伊豆といわれた理知的な政治家だった。こういうタイプは、そうでない老からみれば、言動のことごとくが冷たく陰険に見えるので、正信は老中人事も信綱のさしがねにちがいないと思い込んでしまった。一種の被害妄想というのであろう。
はたして万治三年(一六六〇)十月、正信は時政を批判する上書を幕閣に呈出して、無断で帰国してしまった。
正信の上書の内容は、
「老中の補佐がわるいため、世の中はますます困窮し、四代様(家綱)の代に入ってこの十年間に除封された大名の知行高は十二万石にものぼるのに、それは将軍の姻戚や側近に与えられるばかりで、貧しい旗本へは少しも分けられていない」
というようなことで、随所に、
「(老中に)大として能と申す老これ有まじく候」とか、「年寄ども侍の吟味も仕らず候こと、不屈の次第に存じ奉り候」といった、自分が老中に用いられなかった八ツ当たりととれる文言が目立っていた。
この当時の幕府の政策はたしかにまだまだ不備な点は多かったが、旗本については、家綱の治世に入り加増も行っていたし、宅地のない者には宅地を与え、末期養子も認めるという改善の方向へむかってはいたのである。
それにしても、正信の無断帰国は幕法(武憲法度)違反であったから、幕閣はさっそく上使を佐倉へ派遣し、まず正信を城外で謹慎させた。そして一か月後に、亡父正盛の功績に免じて罪毒を減じ、領地没収の上、正信は実弟の信州飯田城主脇坂安政へお預けと決定した。
今のサラリーマン社会にもこれと似たケースはなきにしも非ずだが、延宝八年(一六八〇)五月、将軍家綱の死を知るや、なぜか正信はハサミで喉を突き刺して自害した。享年四十九歳。