◇泉光院、野田成亮の旅 甲斐関係 文化12年9月
・十五日、松平(戸田)家六万石の城下町、松本を通って浅間温泉へ行き、常弥という家に泊まり、雨のせいもあって十九日まで滞在した。雨で畠仕事ができないため、十八日には農家の男女子供が大勢で入湯に来た。夜は奥の間にて男ども五、六人集まり、飲むやら唄うやら、深更まで遊興やかまし。あゝ困り入りたり、この雨で、高い山々は、雪で白くなった。
・二十日、出発。平田(同市平田)の金剛寺という山伏が学者だというので訪ねて行ったが、占いの料金表が張ってあるのにうんざりして出て来た。村井の宿場(松本市村井)に泊まる
・二十二日、割即の宿(塩尻市)へ出る。松本の番所があった。塩尻峠を越えて下諏訪へ下り、和泉屋という湯宿泊。
・二十三日、諏訪明神(諏訪大社秋宮・長野県諏訪都下諏訪町)に参詣した。泉光院は、この日、生まれてはじめて富士山を見た。次に、上諏訪(諏訪市)の諏訪家三万石、高島城下に入る。善根宿がないので、四キロ歩いて大熊村(同市湖南大熊)泊。
・二十四日、上の諏訪(諏訪大社上社本宮・同市中洲)参詣。
当所、七つの不思議ありといえども、くわしく聞けば虚説多しと、一蹴している。
甲州街道へ出て金沢宿(茅野市金沢)泊。
・二十五日、午後から風雨が強まり、蔦木(ツタキ)(諏訪郡富士見町上蔦木・下蔦木)
・二十六日、甲州街道で信濃(信仰・長野県)と甲斐(甲州・山梨県)の堺を越え、番所のある村(不明)〔筆註 教来石村〕に泊まった。
・二十七日、平四郎が托鉢するというので、坂を登って原村(諏訪郡原村)へ
行ったが、家があまりないばかりか、十軒のうち九軒までは留守なので、手ぶらで下りて来た。しかも、農繁期で泊めてもらえないため、三光寺(富士見町上蔦木)という禅寺に泊めてもらった。
・二十八日、住職が、今日はお祭りなので、この近村を托鉢してもう一泊しなさいといってくれた。托鉢先の方々で、施行の餅が出た。
・二十九日、次の目的地は身延山なので、韮崎を通って南下し、北割村(山梨県韮崎市大草町上条北部)の永明寺という禅寺に泊めてもらった。この寺には二十二、三歳とも見える大美の大黒さん、まします、女性のいないはずの禅寺に、若く美しけお嫁さんがいた。(大美)は、「おおうつくし」と読むのか。
◇泉光院、野田成亮の旅 甲斐関係 文化12年10月
・十月一日(グレゴリオ暦十一月一日) 托鉢しながら飯野新田(山梨県中巨摩郡白根町飯野新田)まで行って泊まる。このあたりは日蓮宗ばかりで、他宗の者には托鉢も応じてくれない。とても泊めてくれる家はないだろうと思っていたが、「身延山の御影講に参詣する行者です」と名乗ったところ、すぐに泊めてくれた。
御影供(日書写は御影講)とは、宗派の開祖の肖像監削で供養をする法事のことである。
・二日、本村(白根町内らしいが不明)の常禅院と云う山伏宅に笈をあずけて托鉢してから、林昌院という別の山伏宅に泊まった。
・三日、在家塚村(白根町在家塚)文殊院という山伏宅に泊まり、甲州名物のほうとうをご馳走になった。うどんと野菜を煮た料理である。ここには俳句の好きな人が多く、また、小林藤衛門、斉藤弥三衛門という人が、弓を習いたいといって来たので、七日まで滞在して楽しくすごした。
・八日、出発しょうとしたところ、弓を教えた二人が謝礼の金を持って来た。謝絶したところ、ぜひお礼をしたいという。すると、文殊院が、ちょうど綿入れを仕立てるところなので、それをお贈りしようといい出した。泉光院も、それならお受けするから、身延山の帰りまでに仕立てておいていただきたいと頼んで出発した。
上今井村(同郡櫛形町上今井)の威法院という山伏宅に立ち寄ったところ昼食が出て、今夜は泊まるようにいわれた。下今諏訪村(同郡白根町下今諏訪)の彦兵衛宅に泊まる約束をしているといったが、是非にといわれて一泊し、『山伏二字義』の講義をした。ここにも、俳句の好きな人がいて、俳句の交換をする。泊まれないどころか、引っ張りだこになっている。
九日、威法院に(邪気加持)の方法を伝えてから、二キロぐらい離れた彦兵衛宅で一泊。
・十日、小室(南巨摩郡増穂町小室)の日蓮宗妙法寺に参って、梶ケ沢(同郡鰍沢町)の宿場で泊まった。
・十一日、夕方、身延山(久遠寺・同郡身延町)に着き、本堂、祖師堂、鬼子母神堂に参詣。門前軒数多し。皆、旅籠屋なり。法印という宿に泊まった。
・十二日、早朝に身延山を発って、七面山に向かった。まず、身延山の奥の院に登って祖師堂に詣で、八キロ下って早川沿いの道に出る。それからまた七面山頂まで往復……と書けば
簡単だが、門前町から奥の院まで高低差が七百メートル以上ある。さらに同じぐらい下ってから、千五百メートルほど登って、また下らなくてはならない。帰りは川沿いの楽な道を通っただろうが、門前町の宿に帰った時は夜の八時頃になっていた。
・十三日、身延を発って、下今諏訪村の彦兵衛宅へ行き、そばをご馳走になってから在家塚の文殊院宅へ夕方に着いた。頼んでおいた綿入れができていた。
・十四日、滞在。
・十五日、藤衛門に祈ってほしいと頼まれて、一日中、仁王経を読んだ。十六日、弥三衛門宅からそばをご馳走したいと申し入れがあったので行き、ここでも祈ってほしいと頼まれた。仁王経を上げたところおそくなったので、泊めてもらった。
・十七日、文殊院、藤衛門に見送られて出発。西野村(中巨摩郡白根町西野)の宝珠院という禅寺に泊まる。十八日、托鉢しながら野手島村(同郡八田村野午島)まで行き、東学院という禅寺泊。白米一升の施行を受けた。
・十九日、托鉢して東割村(韮崎市大草町上条東割)まで行くと、病人がいるので加持をしてほしいと頼まれ、上がって加持をすると具合が良くなったので、今晩は泊まって祈ってほしいということになった。二十日は、出発するつもりだったが、もう一泊して開運の祈念をするように頼まれて滞在。
・二十一日、出発して西割村(同町下条西割)で托鉢し、一軒の家に立ち寄ったところ、昨日加持をした忽衛門の妹の家だった。ぜひ泊まれといわれて一喝・二十二日、日が暮れか切って宿を探したが、村民がすべて日蓮宗の村だったので、団子村(北巨摩郡双葉町団子新
居、)まで行き、目の不自由な僧の住む庵に泊めてもらった。二十三日、本団子村(同上)泊。
二十四日、島村(中巨摩郡敷島町島上条)を通って美岳山(御岳)の方へ向かったが、亀沢村(同町亀沢)で日が暮れた。しかし、忙しい季節なのでどこの農家も-留守番は、五、六歳ばかりの子供か、または百歳ばかりの老人にて、一切らち明かず、ようやく、多左衛門宅に泊めてもらった。
・二十五日、多左衛門宅に笈を預けて、美岳山の金桜大明神(金桜神社・甲府市御岳町)に参詣。奥の院にも参ろうとしたが、雪が積もっていて登れなかった。また亀沢村泊。
・二十六日、托鉢しながら吉沢村(敷島町吉沢)へ行き、ある家で休ませてもらったところ、亀沢村多左衛門の兄弟の家とわかり、すぐに泊めてくれた。亀沢と吉沢は二キロも離れていない。
・二十七日、出発して山宮村(甲府市山宮町)で宿をもらっておき、托鉢した。戊亥(北西)方向に温泉があるので行ったが、湯がぬるく、しかも入湯料が十六文だった。日本国中、温泉一度に十六鋼(文)というは未聞、珍しき所なり、と書いている。湯村温泉とは反対の方向で、地図には見当たらない。江戸の銭湯でさえこの時代は六文だから、非常識に高い。
・二十八日、武田信玄の古城を見に日陰村(甲府市日陰)まで行ったが、昼から大雪になって歩けない。和田村(同市和田町)で一軒の家に寄って休ませてもらったが、積もること三尺(九十センチ)、いよいよ行くことを得ず、となり、「降りこむる雪に無理いう二ノ庵」と一句作ったところ、主人の伊兵衛が、「一宿したまえ」といってくれた。発句にて宿もらいたり。
・二十九日、昼に和田村を発って日陰村へ行き、托鉢しながら宿を探した。雪が深くて歩けない。ようやく、宗衛門宅に泊めてもらい、そばのご馳走になった。
◇泉光院、野田成亮の旅 甲斐関係 文化12年11月
・一日(グレゴリオ暦十二月一日)雨なのでもうー泊することにしたところ、開運の祈祷を頼まれて仁王経を読んだ。二日、滞在して托鉢。ようやく、信玄の古城を見に行った。現在の武田神社(同市古府中町)である。三日、宗衛門の親類の勇衛門という人が昼食に招いてくれたので行くと、親類の人が来ていて、ぜひうちで泊まりなさい、というので、そのまま下横翠寺村(甲府市積翠寺)の善左衛門宅へ行った。
・四日、雨で滞在。祈轟を頼まれたので、仁王経を一日中読んでいた。五日、そのまま滞在してここに住み着いてしまった肥後(熊本)出身の大部が話しに来た。今は出家して、庵に住んでいるという。
・六日、滞在。電信玄の本城(要害山)を見に行く。
・七日、下積翠寺を出発する時に、主人の善左衛門が「今年の年宿は、もう決まりましたか」と尋ねた。泉光院が、「まだ決めておりませんが、いずれ、この国で年を越さなくてはならないと思っております」
と答えると、善左衛門は、「それでは、この方へ宿参らせん、私どもで年宿を致しましょう」といってくれた。泉光院は、「お願い申し上げます」と、荒約束しおき、出立する。
まだ一カ月近く先のことで、その間に何が起きるかわからないから、つまり、仮契約したのである。こうして、今年も年越しの場所は決まった。
その足で甲府城下へ出た。町数も神社仏閣も多い、賑やかな町だった。三軒の山伏宅へ行ったが、二軒は留守、明王院という男は炬燵に入ったまま黙っているだけなので、在家塚の文殊院宅で知り合った王宝院春暁という山伏を神村(甲府市上町)へ訪ねて行って泊まった。
・八日は、雨になったので滞在。
・九日、七覚山(円楽寺・東八代郡中道町右左口)参詣。姥口村(同上)の兵蔵宅に泊めてもらった。
・十日、滞在して近くの村を托鉢。
・十一日、大雪になったので、仕方なく滞在。
・十二日、托鉢しながら市川(西八代郡市川大門町)へ行く途中、踊り村(東八代郡豊富村大鳥居)泊。
・十三日、「朝、珍しき物を食す。輪大根、青菜、芋、そばの粉を入れ、練りまぜたる物なり。また、平四郎は、粟の粥に千切大根の入りたるものを食したり。みな、珍食なり、健康食晶である。大塚村(西八代郡三珠町大塚)に泊まったが、宿の方で食事を出してくれるので、一軒に一人だけしか泊められない。こういう風習の土地が、方々にあった。平四郎とは別の家になった。
・十四日、平四郎が世話になった三郎兵衛という家へ訪ねて行ったら、もう一泊しなさいといわれて、今度は二人で泊めてもらう。
・十五日、高田村(市川大門町高田)まで行ったが、日蓮宗の家ばかりでどこも泊めてくれない。暗くなってから、ようやく泊めてくれる家が見つかった。・十六日、市川の宿(市川大門町)を出て托鉢。ここも日蓮宗ばかりで泊まれないので、花輪(中巨摩郡田富町東花輪・西花輪)へ行って貴盛院という禅寺に泊めてもらった。住職が、一悟した僧で、なかなかできた人物なので居心地が良く、二十一日まで滞在して、托鉢に日を送った。
・二十二日、托鉢しながら神村へ行き、また王宝院春暁宅に泊まった。
・二十三、二十四日、春暁に(護身法)を教えた。謝礼に足袋を一足もらう。
・二十五日、アサキ村(甲府市朝気)に来雪という俳人がいるというので訪ねて行ったが不在なので、善光寺(甲府市善光寺町)参詣。横禰(根)町泊。
・二十六日、托鉢中、後ろから呼ぶ人がいるので戻ると、庄屋宅でぜひ回国の話を聞かせてほしいという。時間を取られて迷惑だが、仕方がないので方々の名所の話をしていると昼食が出て、俳句談義になり、来雪の家を訪ねたことも話した。結局、昼過ぎまでしゃべってしまった。参考までに書いておくと、東
国では、庄屋のことを名主と呼ぶのだが、泉光院は必ずしも正確に使い分けていない。しかし、本書では、原文のまま書くことにする。この夜は松元(東八代郡石和町松本)の義平宅で泊まった。
・二十七日、夜、朝ともにご馳走になった上にもう一泊せよといわれて、托鉢に出た。イサワ鵜飼山(遠妙寺・石和町)参詣。夜はほうとうをご馳走になった。何か書いてほしいと頼まれて、「雪よりも 深き情けの あるじかな」と一句。
・二十八日、朝食をご馳走になって出発。托鉢していると、平四郎がお説教し
た。昨日あたりは、庄屋の家で雑談したりして、本気で托鉢しているとは思えません。天気の長い時にせっせと托鉢してこそ、雨や雪の時に休めるのではありませんか。それに、これからあちこちで托鉢するのには役銭(入山料)がかかります。それも、今から貯めておかないと急には間に合いません。前もって努力するのは欲とはいえないでしょう。天気が長いのに本気で托鉢しないのは、目先だけ苦しいだけのわがままというものです」
もちろん、こんなことをいわれて黙っている泉光院ではないから、すぐに反論した。
「蓄えておくのはいいが、目先の利益ばかりを考えていれば、必ず後で困ったことが起きる。人は、天から与えられるものによって、天の理に従って生きているのだ。理に逆らって入った金銭は、やはり逆らって出る。だから、身体をかえりみずに、身を粉にして稼ぐ必要はない。天の理にかなうようにしてさえいればよろしい。天運にまかせる気持ちこそ仏道修行の心なのだ」
こんなことをいい合いながらも、天気が良いのでせっせと托鉢に励んだ。ところが、昼食の時に、ちょっとの間に米の袋を犬に噛み破られ、せっかく托鉢で蓄えた米が散ってしまった。「ほら、天が与えないものを強いて雪取っても、すぐに取り戻される」それみたことかといわんばかりのお説教に、感心したのかあきれたのか、平四郎は黙ってしまった。
岩下村(袋空岩下)金左衛門宅に泊まる。
・二十九日、雨になったので滞在。
◇泉光院、野田成亮の旅 甲斐関係 文化12年12月
・一日(グレゴリオ暦十二月三吉)八幡(大井保窪八幡神社・同市北)に参詣し、市川村(同市市川)泊。
・二日、米がなくなったので廉団子を食べて出発水口村(同市水口)で托鉢していたら、男の人が、今夜は家でお泊まりなさいと声をかけてくれ、一泊。
・三日、元水口村泊。
・四日、この日も焼団子だけで出発しようとしたところ、隣の家から餅を差し入れてくれ、昼食もご馳走してくれる家があった。泉光院は、これ、天、人を捨てず、と書いている。峠(桜峠)を越え、赤柴村(東山梨郡牧丘町赤芝)で泊まった。この辺は山の中の谷間で、点在する村々も、海抜四百メートル前後の高さにある。
・五日、谷を下って、西保牧村(同町西保)の庵に泊めてもらう。
・六日、托鉢しながら中村(同町西保中)まで来ると、病人がいるので加持してほしいと頼まれ、枕加持をした。泊まっていくようにいわれて一泊。夕食をご馳走になった。
・七日、朝食は、唐キビ(とうもろこし)の団子と、ゆでた里芋、輪大根に小豆の餡(アン)をまぶした珍しいものだった。この日も、托鉢先で昼食をご馳走になった。倉科村(同町倉科)の弥忽衛門宅に泊まった。ここの主人も禅に凝っている〈異人〉で、夜話の時、いろいろと仏教上の質問を受けた。泉光院が、「自分の身が可愛いということを忘れないと、本当の安心はできません」という干もっとも也、といわれたり、夕食をご馳走になった。
・八日、滞在。近くの村々を托鉢し、方々で昼食をご馳走になった。
・九日、信玄の菩提寺である恵林寺(塩山市小屋敷)に参詣してから、東井尻村(同市上井尻)の仁衛門宅に泊まる。古、大雪になったので、やむをえず滞在。この家は、茶をいることを禁ぜり。不思議のこと也。しか願いごとがあって、茶断ちしていたのだろうか。
・十日、晴れたが、もう一泊するようにすすめられ、村内を托鉢。
・十二日、塩山(塩山向岳寺)に参ってから、粟生野村(同市粟生野)泊。
・十三日、製石山(裂石山雲峰寺・同墓石)参詣のために谷間を行くと、萩原(同市上萩原)に番所があった。この道は、甲州砦を通らずに柳沢峠を通って江戸へ出る間道なので、その警備のためだろう。萩原泊。
・十四日、中萩原(同市中萩原)泊。
・十五、十六日、牛尾村(同牛奥)
・十七日、西の原村(同市西野原)泊。
・十八日、獅子村(勝沼菱山?)泊。連日の冬晴れが続き、もうすぐ正月なので、泉光院も毎日熱心に托鉢しながら歩いている。
・十九日、泊めてくれる家がなく、獅子村の富衛門宅に戻った。
・二十日、甲州街道の勝沼宿(同町)へ出て、中尾村(同町中尾)泊。
・二十一、甲斐一ノ宮(浅間神社・東八代一宮町)に参詣し、門前の茶屋泊。
・二十二日、滞在して、近くの村々を托鉢。主人に望まれ、
「何かなと 予をいたわりつ 村時雨」と一句。
・二十三日、日陰村(甲府)へ行って宗衛門宅に泊まる。
・二十四日、下積水寺、善左衛門宅へ、年宿として行く、主人の善左衛門も待ちかねていた様子で、甚だ都合よし、しかも、十一月泊まった時、地元の句の応募するように誘われ、おしゃべりしながら片手間に書き付けた句が、千句のうち、三番と十二番に入選していた。その褒美が来ているといって、善左衛門の息子が持って来た。それから、泉光院は、俳人としてもてはやされた。ただし、句は略す、というのだから、あまり自信作ではなかったのかもしれない。
神仏に奉納するという形で、大勢の人から俳句を集めるこういう催しが、山村でもかなり盛んだったことがわかる。日本では、万葉の時代から全国各地にあらゆる階級の詩人がいたが、俳句というかんたんな詩形のおかげで、江戸時代には庶民の底辺に近いところにまで広がっていた。こんな国は、世界でも珍しいのではなかろうか。
・二十五日、洗濯。二十六、二十七、二十八、二十九日、毎日、障子の張りかえなどをして、正月の支度に忙しい家人の手伝いをしてすごした。
・三十日、昨夜より大雨。今朝晴れる。歳暮一句、
耳順歳暮夢 終夜耳寒梅 塵世浮雲境 東西唯徘徊
六十路経し 闇路ほのかに 除夜の月
深更まで、年を惜しみて一句。
静かさに 除夜の更くるを 惜しみけり
この句にて、留筆。