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江戸時代の甲斐郡内農民一揆 その二

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秋元家の門閥と闇閥
 
 門閥とは、家柄や門地の事、閲閥とは、妻の一族の勢力を中心に結んだ仲間の事である。秋元長朝は天正18年(1590年)徳川氏の家臣となり(1600年)関ケ原の合戦で軍使となり、和睦を結んだ功により1万石の大名となる。
 その子泰朝は13才で父長朝と共に、徳川家康に拝謁した。慶長5年関ケ原の合戦に従う。(21才)1602年大番頭仮役となり、武蔵固足柄郡采地五百石を賜る。「徳川実紀」の中に慶長8年(1603年)213日、「秋元茂兵衛泰朝24才従五位下に叙し但馬守と改む」、とあり、これは徳川家康が征夷大将軍宣下をした翌日であり、又その後に徳川家康は将軍宣下の拝賀として、京都に参内しているが、その列の中にも秋元泰朝の氏名がみられる。
1605年(慶長10年)徳川家康は将軍職を秀忠に譲り駿府に移った。この駿府の大御所政治に、側近として秋元泰朝は参画している。この参画した25名の者は江戸の将軍秀忠の譜代直臣層で固められた側近に比べ、武功派と言うより、吏僚派でその能力や、才智によって家康に認められ重用された人達で、近世出頭人、又は御側出頭人と称せられた。
家康没後(75才)尊体を夜半に久龍山に移し奉る時、秋元但馬守泰朝霊枢に供奉したとある。
 3代将軍家光は、祖父家康の一挙手一投足と、その言動、行動を余す事なく知る事を望み、「御談判衆」として秋元泰朝は将軍家光に拝謁しており、都留郡に移封になってからも、およそ10年間日光山造替総奉行として過し、亡き家康の霊廟に仕えたのである。
 寛永10年(1633年)秋元泰朝甲州郡内領に移封となり、以来372年間谷村勝山城にあって郡内領を支配した。(御地頭様) 秋元泰朝の妻綱は、松平右衛門大夫正綱の妹であるが、この松平右衛門大夫正綱は、秋元泰朝とは駿府時代の近世出頭人として、家康に仕えた仲である。
 泰朝の長男、富朝の妻は(女葉)と言い、徳川家康の養女国姫の娘であり、ここで秋元家は徳川家と姻戚関係を結んでいる。又泰朝の次男忠朝は3代将軍家光に仕え、泰朝の妻綱の甥に当る「智恵伊豆」として名を残している。松平伊豆守信綱の三女を妻に迎えている。
秋元富朝には男子がなく、女子が桂と言い、戸田山城主に嫁し男子が生れたら秋元家の養子になるという約束通り、戸田家から幼少の喬知が秋元家を継いだが、12才の若さで従五位下但馬守に叙任されて居り、将軍家から幼少のため懸念されていた。遺領の継承と、転封の中止、従五位下但馬守叙任とを合せて可能に出来たという事は、それだけ秋元家の周辺は閏閥でつながれた、二重三重の強い姻戚関係があったといえる。
 こうして見れば秋元但馬守泰朝は、近世出頭人時代からつくられた人脈から、子供達に妻を迎え江戸幕府内に姻戚関係を強く結んで居る事が判る。

秋元氏の施政と徴税
秋元氏は郡内にあって、河川の修復、甲斐絹の奨励にも手を尽くした事は後世まで伝えられているが、一方領民に対し、倹約令をも発し盛んに質素倹約をすすめ、貧富の別なく綿布の着用を厳禁し、障子の腰板を高くして用紙の節約をさせ、又婦人の髪飾りや当時領民にとって最も楽しい、村祭りの調理馳走にいたるまで、質素にすべき事を命じたと言われるが、この様な蘭民の生活のあらゆる面までの干渉は、幕府の「慶安の触書」に対応するものであった。秋元氏がいかに名君であったと強調してみたところで、八公二民(所得の8割を上納し2割が手元に残る)を上まわる正租と、それ以外の驚くべき雑税の収奪と言う事実は決して消え去らないものである。一介の低格大名から、短期間に出世をして、ついに老中にまでのし上った秋元氏は、並々ならぬ才智の持主であったであろう。この立身出世タイプが後に崇拝者を生み出し、名君説ともなっているのであるが、秋元氏の領主としての性格を決定するためには、当時の政治的、経済的背景を無視してはならない。秋元氏郡内入部の宝永年代は徳川幕府興隆期にあたり、鎖国、参勤交代、田畑永代売買禁止、など一連の封建制が確立され、五人組、宗門改、慶安触書、と農民に対する誅求機構が整えられた。
 譜代大名たる秋元領主主の施策が幕政を忠実にとり入れたものである事は云うまでもない。土臭さの抜け切れない戦国の大名と異なって、秋元喬知は「中世の遺制」に妥協する事なく、より封建的に洗練された近世大名として、君臨したわけである。
 寛文~延宝期の百姓一揆が旧制への逆行を要請しているのと対象的であり、当時に於ける支配者と、被支配者の間の摘発を意味し、徴税の強化が百姓を「殺さぬ」程度にしめつけるものであったにしても、それが分解しつつある小百姓の独立を権力的に保証するものである限りに於いて、前向きの施策でもあった。
 多数の家臣をかかえて当時江戸に住み、幕政の要職にあった秩元喬知が、その例外でなかった事はもちろんである。殊に家格にやかましい武家社会で、短期間で立身出世をはかるためには、一層多くの貨幣を獲得する必要があったのだ。喬知の時代に一揆が勃発したのには、それだけの必然性があったと言わなければならない。
 又秋元家の江戸幕府内に於ける地位は、初期の段階で長朝と泰朝によってつくられたと云える。しかし一般的には喬知が秋元家中興の祖と言われているが、この2人の蒔いた種を喬知が更に発展させ摘みとったと云えるだろう。
 
芭蕉の郡内流萬
 又この時代、松尾芭蕉が郡内に於いて流寓生活を送ったのが、秋元藩の国家老高山伝右衛門繁文、俳号、麋塒(びじ)の屋敷内にあった、「桃林軒」という離れであった。
この芭蕉の句に、
  山賊(ヤマガツ)の 頤(オトガイ)閉づる葎(ムグラ)かな  
の句がある
  山に登ってゆくと道にまで葎が生い茂っているので山男達は、下あごを閉じてその所を通り抜けようとしている。本当に厄介な草だ。というような意味であり、この句は貞享元年(1684年)「甲子吟行」の帰途に高山麋塒の処へ立ち寄った芭蕉が、甲斐山中にて作ったものと言われている。
しかし甲州の歴史に詳しく、山梨について幾つかの著書を残されている、井伏鱒二氏が著書、「丘麓点描」の中に、この句の評を書いている。芭蕉は山男達から、延宝9年(1681年)郡内藩で起きた百姓一揆の際、捕えられ処刑され
た百姓総代等の事について、詳しく聞き出そうとしたのだが、後の禍を恐れた彼等は固く口を閉じて話そうとしなかった。その様子を葎に託して詠んだのではないか、と言っている。ただ葎を詠んだだけのこの句は、まことに平凡と思われますが、裏にその様な意味がこめられているとなると、興味深いものと言える。

終りに
 今からおよそ300有余年前、徳川時代は国外に対してだけでなく、国内に於いても隣藩 に対しても領国主義であった。この二重の領国の下に最も苦しんだものは、将軍でもな ければ、藩主でもなく、政治の任にあたる幕吏や藩吏でもなく、又武士でもなかった。「百姓と胡麻の油は絞れば絞る程出るもの也」と云って遠慮会釈もなく、苛斂誅求(カレンチョウキュウ)と鞭を揮いながら治者たる武士に向っては、一言も逆らいの出来なかった農民こそ、最も苦しんだ封建社会の犠牲者であったことは言うまでもない。
江戸町奉行所への訴状に付則された苛酷な税の取立の中のもっとも驚くべき事柄は10カ村分本高2880余名に対し、この納米が実に2320石、俵にして6330俵で平均805%の高率だったという事です。この数字によれば、まさに苛斂誅求と言うべきであろう。
 この生かさず殺さぬ程の、重税の庄政に対してただひたすら耐えねばならなかった当時農民の切々たる、憤りと哀願を思う時、又六地蔵に向ってひたすら合掌したであろう下々の、民衆の哀れに悲しい生活に、今更に血涙を洗し、断腸の思いを禁じ得ません。
 また民衆の寄託により、その一身のみならず、妻子兄弟にも及ぶ惨刑をも覚悟して、この事を果したいわゆる、民義を正して天界を開く純民の精華と言える。この犠牲者達の大いなる遺徳に対して、今更ながら深い慟哭と、当時の封建社会への強い憤りと矛盾を感じると共に、今日の開かれた民主憲法の時代では想像も出来ない様な暗黒な、上下差の甚だしい時代の生んだ悲劇といえます。しかし郡内各所に於いてその遺徳を偲び、その霊が高く顕彰されて居ります事を心に銘記してこの稿を終わります。

<註>苛政誅求=税金等をきびしく取立てる事
<参考文献>
1.論集 郡内研究
2.秋元家郡内治績考
3.江戸時代の農民一揆と六地蔵
4.岳麓点描
5.郡内百姓一揆
6.六地蔵をたずねて
7.大義至行

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