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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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◇泉光院、野田成亮の旅 甲斐関係 文化13年1月~3月

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◇泉光院、野田成亮の旅 甲斐関係 文化131
・元日、故郷の佐土原を出てから、四度目の正月を甲府、下積水寺村で迎えた。ここでは、元日の朝七ツ、つまり明六ツの一刻前にそばを、儀式に食し、それからすぐに鎮守へ行って御幣をめいめいに捧げてから、雑煮を祝う習慣だったと書いている。この季節の「明六つ」は、甲府では六時十分頃なので、七ツといえばまだ四時頃で真っ暗だ。妻や、近所の人々が年礼、つまり年始に来た時も、最初はそばを出して、後で雑煮を出す習慣だと、泉光院はこまかく観察して書いている。大晦日の最後の食として年越しそばを食べるのと、新年の最初の食事にそばを食べるのは、もともと一続きの風習だったらしい。
・二日、五人組の掟を書写し始めると、書いているが、自分の参考のためか、頼まれたのかわからない。夕飯は、名主の善右衛門宅に招かれた。ここも、そばだった。
・三日、主人が親戚を招いてご馳走したが、これもそば切りなり。
・四日、肥後熊本県出身の善明と云う人の庵に招かれた。
十一月はじめに滞在した時、訪ねて来た人である。それから、所へ年礼に廻り、お札を贈物として配った。宇衛門宅では、雑煮を振る舞ってくれた。この辺の雑煮は、餅に大根切り干しを入れる。夕食は、市之丞宅でご馳走になった。ここは、そばの次に飯が出た。
・五、六日、天気が良く、何事もなく過ぎた。
・七日、厄除けの祈念と安産の祈祷を頼まれて、終日読経し
・八日、名主宅で新春の祈祷を頼まれて、仁王経を五回上げた。
・九日、家で例の掟を書写。
・十日、日陰村の宇兵衛宅へ行って読経する。
・十一日、西という家で、厄除けのお祈り。
・十二日、山巾兵衛宅で祈祷。
引っ張りだこである。十三日、村々で、道祖神を祭る行事を見る。
・十四日、昨日の続きで、獅子舞が村中を廻る。
・十五日、甲府へ道祖神祭礼を見に行った。注連縄の竿を町々に飾り付け、俄か狂言をしている。歌舞伎の様に舞台装置を造り最後は俄か、つまりおちをつけて面白がらせるようになっているのだ。六ケ所でやっていたが、一番面白かったのは、伊勢の宮廻り、合いの山(内宮と外宮の間の山)の仕立てだった。
町の三丁ほどの間に、内宮・外宮・天の岩戸などをこしらえてある。天の岩戸は、周囲をかこって真っ暗にした所を二十五、六メートルも歩き、いささか緊張気味になって通り抜けると、人家の裏の畑の何もない所へ出て大笑いになる。内宮は、飾り立てた中にさつま芋を三宝に盛った飾りがあり、外宮では簾のように藁莚がかけてある。合いの山では女装した男が赤前垂れで三味線をひき、ささらを鳴らしている茶屋があり、参詣の人を引き入れて、茶、菓子、洒、吸い物などを振る舞っていた。伊勢の合の山には、こういう格好で伊勢節を唄う女性の大道芸人がいて、全国的に有名であった。
また築山に泉水の形を作った場所もあったが、植木・手洗鉢・石などは、裸の男の体に着色してその形にしたものだ。まだ寒いのに、さぞ大変だろう。ほかにも、見せ物、作り物が多かった。夕方帰って休息。
・十六日、名主宅で、そばをご馳走してくれた。去年の暮に泉産が菅香えた障子の仕上がりを、平四郎がつくづく眺めて、「紙の継ぎ方が、あまり上手ではありませんな」と批評した。例によって、すぐやり返す。「本職ではないのだから、破れないように継げばよろしい。私が本気で考えているのは、回国中は、夜も昼もただ厳粛に生きるための工夫だけで、紙の継ぎ方などどうでもいい」「ああ、そうですか」
・十七日、(日待団子)を一升舛に入れて、床の間に上げた。日待というのは、前夜から寝ずに日の出を待つ行事だから、その時に団子を食べる習慣があった。
・十八日、直蔵宅で祈祷。
・十九日、家で祈祷。
・二十日、初灸治。家族全部がお灸をした。
・二十一日、文助宅で祈
藤。二十二日、八衛門宅で祈肩。夕方、霞が降った。
・二十三日、日陰村の宇衛門宅で、出発を祝うご馳走が出た。
・二十四日、善左衛門に、屏風に何か書いてほしいと頼まれて、唐詩を書く。
・二十五日、出発準備。のどかな年宿の滞在も終わりに近づいた。
・二十六日、今日は出発の予定だったが、善左衛門一家も近所の人々までも名残を惜しみ、ぜひ明日まで滞在してほしいというので、もう一日滞在した。こういうやさしい人の多い土地だから、肥後の善明のように、この地に住み着いてしまう人もあったのだろう。
・二十七日、善明も、日陰村の牢番門も、ぜひもう一日いてくれと、無理に申されど、出立と定めたれば立つ。皆々、途中まで見送る。宿の老母、別して別れを惜しんでいる。一月の間、家族のようにして暮らしたが、もう、二度と会うことはない。
例によって淡々とした記述だけだが、ここも老母とは涙ながらの別れだったと思う。「香にそみし 袖たちがたし 花の宿」と、別れの句を残し、昨年泊めてもらった松元の茂左衛門宅へ行って泊まる。
昨年十一月六日の日記では、義平宅となっている。間違いだろう。もう雪は溶けて春霞の季節になっていた。
・二十八月昨年泊めてもらった、岩下村の金左衛門宅に泊まり、夜遅くまでおしゃべりをする。
・二十九日、雨風が強くなったので、滞在。
・三十日、去年世話になった一ノ宮村の忠左衛門宅に泊まる。そばをご馳走になった。
◇泉光院、野田成亮の旅 甲斐関係 文化12年2
・一日、滞在して、国分寺(東八代郡一宮町)参詣。忠兵衛の娘さん、年柄悪きとて、募りの祝い讐などあり、年寄祝い雑煮などあり、厄年の厄払いに雑煮を食べる風習があったようだ。親類や近所から、祝いの俳句が届いたので、泉光院も「若餅や 去年の鏡に また重ね」と一句。上手下手はともかく、庶民が何かにつけて句をやりとりする風流な習慣は、近畿地方だけではなかったのである。
・二日、滞在。昨年知り合った桑里という老人が、別れの歌を贈ってくれた。一ノ宮につとめる掃部(カモン)という人と近づきになった。
この人(?)は、『四書字引』の音声についての著作のある人で、江戸、林氏の改めありたるよし。昌平坂学問所で検閲を受け、正式の書籍として刊行したのだから、中途半端な学問ではない。
・三日、中尾村(同町中尾)泊。途中、桑里宅に寄り、「梅咲いて 散り行く歌を 別れかな」を贈った。
・四日、柏尾山(大善寺・勝沼町)参詣。鶴瀬の甲州の番所を越えて、水の田村(不明)泊。
・五日、昼過ぎ、山中を四キロ登って天目山に参詣後、下山して田野村(同村田野)泊。
・六日、田野には、武田勝頼切腹の場所に徳川家康が建てた天童山景徳院があるので参詣し、大いなる峠、笹子峠を越えた。今は、鉄道、道路ともトンネルになっているが、泉光院が越えたのは、曲がりくねった旧道である。シラノ原(大月市笹子町自野)泊。
・日、甲州街道を江戸へ向かい、猿橋を渡った。日記には、八日となっているが、この日の晩に泊まる綱の上村は猿橋よりずっと東側なので、実際は七日に泊まったのだろう。綱の上村(同市梁川町網の上)まで来て泊まろうとしたが、どこも泊めてくれない。庄屋(ここでは庄屋になっている)宅へ行って頼んだが、差し宿はでき申さず、ここでは斡旋できない、つまり、村民に強制できないといって相手にしてくれない。困っていると、例のように向こうから声をかけて泊めてくれる人がいたので、かたじけなく、一宿もらい出す。五兵衛宅。日本国中、ほぼ均一の割合で親切な人が分布していたようだ。
・八日、板橋(神奈川県津久井郡相模湖町小原の西はずれ)泊。
・九日、板橋を出て小原まで来る七㌧甲斐と相模の国境の番所があった……と書いているが、これは泉光院の勘違いで、甲斐と相模(相州・神奈川県)の堺は六キロほど西の上野原で、すでに通り過ぎた。ここは相模と武蔵の境なのである。小仏峠にさしかかったところ、春の大雪になって、とても越せない。
 
<ここで山梨県関係の記述は終わっている。>

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