江戸時代の甲斐郡内農民一揆
六地蔵と、秋元家の門閥及び芭蕉の郡内流萬をめぐって
奥秋くに子氏 三枝力氏 三枝花子氏 渡辺初夫氏 小俣ミネ子氏共著
一部加筆
年輪「山梨ことぶき勧学院大学院」平成6年度卒業(5期生)
文学・芸術コース卒業論文集 山梨県教育委員会
はじめに
私達の住む都留市内に、向富山用津院(ユウシンイン 都留市金井)と云う寺院があり、その寺の一隅にかって寛文年間に起きた「郡内農民一揆」の犠牲老中の7人の名前が刻まれた、六地蔵が祀られております。この寺の前方に見える河原がその当時の刑場であり、その犠牲者の血を洗った「首洗いの桶」長さ1.5m幅60cm深さ60cmの石の桶もこの寺に今も保存されて居りますが、往昔の切々たる悲しい物語を秘めて今も雨風に晒されながら残されて居ます。
郡内の領主、秋元泰朝
秋元泰朝が郡内の領主になったのは、寛永10年(1633年)であった。それ以前年貢の取り立ては戦国の武田信玄の遺した税法によって行われて来たが、秋元氏の代になって秋元氏の法によって厳しくとりたてられるようになった。米作の少ない郡内領では百姓の困難は酷いものとなり、その上あらためて「検地」までしようと云う厳しいお触れが伝えられたので、ついに寛文6年(1666年)「甲州都留郡一同」の名によって「難渋願の事」の嘆厳にまで発展した。農民たちは必死に重税に対して封建支配への激
しい憤りをこめて、蘭主に対する抵抗運動を展開した。そして請願一揆が郡内一帯でつぎつぎと起こった。その結果領主から1、2名のもののわかるものを総代として、書面で願い出るようと申しわたされた。郡中相談の上明見村庄屋想右ヱ門、朝日村庄屋惣左ヱ門の両名を総代とたのみ、下記のような願書をもって訴訟申し上げた。
恐れながら申し上げます事は、昨年から百姓共御城下を騒がせた事は誠に恐れいりますが、これまでの甲斐の国の国法を改め、又検地御縄入れをなさるとの事、百姓一同御上納にもさしつかえて難儀がうちつづき 他国へ移り住むものが大勢出るありさまで、また居住地で飢え死にするものもたくさんで騒動となって居ります。右の始末ですから従前のように甲斐の国の税法にもとづいて 御年貢の御上納をおとり下さるよう、恐れながら甲斐の大主武田信濃守晴信公様は、天文年中の開明良な検地で米高、取米を定められました。武田家亡びてから徳川将軍家康公をはじめ、浅野左ヱ門守様、鳥居土佐守様も郡内領の検地がかりとなり、御縄改めをいたしましたが、武田晴信公様の定めおかれた通りに少しもかわりなく、ただ新しく開発した田畑だけ増すのみでした。まことに
迷惑に存じますが、辺地山野の百姓をあわれみ、なにとぞ御慈悲をもって甲斐囲の大主武田晴信公様の定めおかれた通りになし下さるようひとえに願い上げ御訴訟申し上げます。
寛文7年末年3月4日
右舷百姓総代 明見村庄屋 想右ヱ門 印
同総百姓総代 朝日村庄屋 惣左ヱ門 印
秋元摂津守様 御役所
正直な農民たちは、役人の手にのせられて代表2名を出したが、この2名の庄屋はこの年9月7日には入獄させられ、なんの取調べもなく死罪打首にきまり、翌寛文8年2月4日に金井河原で処刑された。これはあきらかに秋元氏の農民に対する挑戟であり、農民の悲願を打ちつぶそうとする威圧であった。郡卜同驚いて大騒動となったが、御地頭様の御威光に恐れて、秘密に山谷に集り会議を起していたところ、御城内の役入の詮議が厳しくなったので、郡中を7組に分けて44人の総代を選び、秋山村の山中に見張りをたてて集まり、相談の上でその中から、さらに7人の総代を選んで総百姓の総代となって力を尽くしてもらうことになった。
これら7名は秋元氏の江戸本邸へ、直々のお助けを仰ぐべく寛文8年8月23日江戸屋敷に行き、
自分たちは役人の指図によって7年に嘆願書を出したが、その願いが聞きとどけられずに2名が打首になった事、武田氏の国法へ復帰をしてもらいたい等の事を訴えたところ、しばらくひかえているようにと申しわたされた。
その翌9年正月、家老岡村庄大夫は、
「お前連の掛、の筋については谷村の役人を取調べたが、役人の云い分にも、もっともな点がある。検地改め替えのことは全国一般のことであるから例外はむずかしいが、検地諸運上その他については従来の習慣によるよう、谷村の役人と総代とで万事うまく相談して決めるように谷村役所へ命じてあるから国へ帰って役人と相談せよ。」
と言い渡された。が、その後も問題は解決する見通しはつかず、その上予定どおり暮から検地が行われた。
寛文7年からつづいた減税の掛、は、農民の合法的な訴えにもかかわらず、一向に聞き届けられる事なく、重なる犠牲者を出した事からも、ここに郡中が一つになって立ちあがる時が来たのだった。こうして重税の圧政に耐え抜いて来た農民は、7名の代表を立てて再び強力な嘆願に、秋元氏の江戸屋敷へ上った。時に延宝8(1680)年11月14日であった。
嘆願状の事
恐れながら申し上げます事は、13年前の寛文8年8月23日付での願意がかない、百姓一同悦びいたしたところ、検地御絶入替えのことは、江戸御家老岡村庄大夫様の仰せのとおりでしたが、それより御年貢の取増しは年々に高値となり、百姓一同再びたちゆかず他国へ移り、餓死するもの多く出る有様となり、庄屋、挺頭から国元の御役人方へ窮状を訴えたところ、この人達は御城内で打首にされたり、入款させられた始末であります。こうして総代7名の者が江戸御屋敷へ嘆厳に出た事を聞いて、江戸表に集って来る者56人にもなりました。まことに御無態とは存じますが、甲斐国の大主武田晴信公様の定め置かれた税
法に基ずいて、御国元就下の百姓一同助かりますよう、13年前の願書をあわせて御慈悲をたまわり、百姓一同安心できますよう一重に、お願い上げたてまつります。右総代をはじめ、集まりきた56人一同にて嘆願御訴訟申し上げます。
延宝8年11月14日
甲斐関都留郡内領7組 総百姓捻代
秋山村 左近 印
新倉村 太郎左街門 印
戸澤村 孫兵衛 印
小沼村 勘右衛門 印
網野上村 八右再門 印
小明見村 武兵衛 印
花咲村 孫兵再 印
外谷村 56名
江戸御屋敷 秋元摂津守御役所
こうした訴状を出した後この7人の総代は、八王子にて越年、国元の成り行きを見ていたところ、先に帰国した56人の者は「江戸屋敷に訴願に出たは曲事である」と描らえられ全員入牢させられたという通達を知り大いに驚き「こうなっては最早越訴による外はない」と固く決意し、江戸町奉行所への訴えとなった。
秋元摂津守知行所甲州部内領19ケ村叢百姓外郡内一同
秋元摂津守知行所甲州郡内領は、当御地頭様御知行になり、御年貢を高取りされ、百姓ども迷惑の由を、御地頭様へ御訴訟申しあげましたきころ、牢舎、死罪に仰せ付けられ、以後は御訴訟のことはできず、百姓たちは困窮難儀におよび、ことに去年は大雨また富士颪の風徽厳しく、田畑一円は風損、水損にあい何とも迷惑いたしました。よって国元にても御訴訟申し上げ、旧冬は江戸屋敷へ参り、お救い下さる、まうにと、御訴訟申し上げましたところ、
「助かるようにするからまず国元へ帰るように仰せわたされ、その帰りの道中に聞いたところによれば、江戸屋敷へ御訴訟に出たことは不届きと言われ、国元にある名主、組頭など牢舎あるいはお預けになり、56人の曲事である」、と仰せられたとの事で、私達は国元へも帰れず、道を引返して江戸へ上り是非なくあわせてこの様に御訴訟申し上げます。
御慈悲に総百姓共助かりますよう、仰付けられるようお願い奉ります。
秋元摂津守知行所 延宝9年(天和元年)酉正月
新倉村 明見村 小沼村 下暮地村 境村 鹿留村 古川渡村 田野倉村 朝日村 秋山村 倉見村 下吉田村 夏狩村 平粟村 大幡村 前久保村 井倉村 戸沢村 与縄村 右19カ村総代百姓
江戸町御奉行様
こうした直接の訴えは当時の乾からいうと、大きな過ちを犯したことになり、事がいかなる事情にしろ全員の死罪は免れないものであったから、江戸町奉行所はこの7名を一時とめておいて、秋元氏から事の次第を聞いて、彼の手に7名を渡してしまった。そして7名は谷村に送られ入牢ののち、同年2月25日金井河原で、首謀者とみられた秋山村の関戸左近は磔の刑にかかり、他の6名は死罪打首になってしまった。それのみで事件は済まされず罪の追及は、その家族にも及び、所払い(居住地を追われてゆく)となったと言う。そして事件は大きな犠牲者を出したのみで何ら農民の生活は良くなる事はなく、この状態はその後もつづいたから、この悲惨な有様と、これを救うために郡内の若い男女
は江戸に出て、大名旗本の屋敷に住み込んだ者も多くあった。この騒動で一命を失った者は117名(忠左ヱ門手記)あったと言われている。′
こうした犠牲者は、封建制の秩序のもとでは正式の葬式は遠慮しなければならないから、これを葬るに人目を避けて行ったという。この事をやみどやらい、「闇葬」と言った。 その後に郡内の各所に建てられた、六地蔵は弾圧の激しい領主側の目を逃れて、かの7名、また9名の代表の霊を弔うためのいわば供養碑であった。
郡内農民の怒りと悲しみはこの六地蔵に打ちこまれて、300有余年の歴史の雨風に今日も道ゆく人の心に深くあわれをさそうものです。