駒嶽(駒ヶ岳)開山は1816で年ではない???
『甲斐国志』巻之三十 山川部第十一 巨摩郡武川筋
従五位下伊予守 松平定能編輯 文化13年(1816)刊
駒力嶽
横手、台が原、白須、諸村ノ西ニ在り、樵蘇スル者山祖干ヲ貢ス、山上ヲ甲信ノ界トス、大武川ニ沿イテ南方山中ニ入ル事若干里ニシテ、石堂二所アリ、下ヲ「勘五郎ノ石小屋」卜呼ヒ、上ヲ「二條ノ石小屋」卜呼フ、此ヨリ上ハ絶壁数拾丈ニシテ、攣援スべカラス、樵夫山伐ノ者卜雖モ至ラサル所ナリ、遠ク望メハ「山頂巌窟ノ中ニ駒形権現」ヲ安置セル所アリ。
尾白川
尾白川ハ山上ヨリ発シ、瀑布ト為リテ懸巌ヲ下リ、級ヲ拾ヒテ潭(フチ)トナル、是ヲ千箇潭(センガフチ)ト名ズク、奇勝殊絶ナルト云、マタ釜無川、大武川皆此山ニ発源トス、
『峡中紀行』(柳沢吉保家臣、荻生徂徠書)
柳澤吉保の命を受けた徂徠は、僚友田中省吾と宝永三年(1706)九月七日(太陽暦十月十一二日)に江戸藩邸を出発、甲州路に向かった。(以下略)
駒ヶ岳記載内容
駒ヶ岳もまた来て駕籠の前に近づいて来るようだ。これを望めば山の草木の無い状態が三四里四方焦げたる石を重ね積み上げたるようにして、巌の角一つ一つ数えられるように見える。山の形は勢い威だけしく、前に富士山は笑めるが様にて、相向えしには似ていない、相伝わる所、昔聖徳太子の飼い賜えし甲斐の黒駒というは、この谷の水を飲んで育ったという。山上の祀る所の社(祠)もなく、ただ化け物の様なるものに、折々二人に逢うことがあり、故に地域の者は滅多にこの山へは登らぬなり、先年一人の愚かでも勇気のある者あり、三日ほどの食糧を持って駒ヶ岳に絶頂に行くと、一人の老翁に出逢えた。翁は責めて云う、「ここは仙人の居る所なり、その方などの来る所ではない」と云うと、髪を掴んで巌の下に突き放せば、不思議な事に、家の後ろの山に落ちた。云々
〔説明〕開山
『甲斐国志』のいう
遠ク望メハ「山頂巌窟ノ中ニ駒形権現」ヲ安置セル所アリ。
これを信じると、小尾権三郎が開山に成功したのが、文化13年(1816)であり、『甲斐国志』の発刊された年にあたる。すると権三郎が開山した以前には既に山頂の「駒形権現」が祀られていたことになる。これが甲斐側か信濃伊那側で設置したかは文献がないので糾明できない。
また荻生徂徠の『峡中紀行』は、宝永三年(1706)に吉保の命で、田中省吾と『餓鬼の嗌』の調査に来た折のもので。駒ヶ岳の記述もその折のもので、当時地元には、
山上の祀る所の社(祠)もなく、折々ただ化け物の様なるもの二人に逢うことがあり、故に地域の者は滅多にこの山へは登らぬなり、先年一人の愚かでも勇気のある者あり、三日ほどの食糧を持って駒ヶ岳に絶頂に行くと、一人の老翁に出逢えた。
というような伝承がすでに有り、これは甲斐国志の約百年前の事となる。
本年が南アルプスエコパークにより甲斐駒ヶ岳開山の日として、大々的に報道されているが、これについては山梨・長野の資料精査が欠かせない。
(1)東駒ヶ岳信仰(甲斐駒ヶ岳信仰)
東駒ヶ岳(甲斐駒ヶ岳のこと、長野県側での呼び名)を信仰対象とする「一山講 いっさんこう」という、山岳信仰集団がありました。一山講の講員は年1回、秋蚕が終わると、東駒ヶ岳に登山をしました。戸台から戸台川を遡っていくと、六合目のすぐ近くの大きな淵の脇に威力不動の碑があり、登山道には他にも碑がありました。頂上の碑も合わせたこれらの碑は、江戸時代から多くの信仰登山者がいたことを裏付けています。